天使が遺したアナグラム #1 認識

プロローグ

それは何気ない変化だった。しかし、無視できない確かな変化だった。彼女、巳様虹乃花(みさま このか)が現れてから、この世界はゆっくりと形を変えていた。
彼女には物事を変化させる力があった。そのような力は、多かれ少なかれ誰もが持っている。しかし、彼女の場合、人とはやや異なっていた。彼女には、この世界で自分勝手に動き回るある種の複雑さや不条理を、真っ向から見据え、泳ぎ切る才能があった。加えて彼女には、意志があり、目的があり、何より、それを信じる心があった。
けれどそれはほんの少しずつで、狭い範囲の話であったので、それに気付く人間はまだ殆ど居なかった。それに彼女自身も、目立つことを好ましく考えていなかった。
その始まりの僅かな影響を、敏感に感じた一人に、人形が居た。ヒトガタと読むが、その名前は彼が勝手に名乗っているだけで、彼の本当の名は誰も知らなかった。元々、名前を誰からも貰った経験が無いのかもしれない。
彼は、彼女に興味があった。もっと言えば彼女が好きだった。それは殆ど思い込みのような感情で、幼稚な部分も混じってはいたけれど、真実であった。彼女についてもっと知りたいと考えていた。そこまで長い関係でもないし、深く関われた自信も無い。それでも、真偽はともかく、彼の中の彼女は奇跡の存在であったからだ。

1 間違いはいつも過去からやってくる

「それは私達の未来でした」
巳様虹乃花は、誰も居ない窓の外を眺めながら、言葉を探した。初めから決められていたみたいに、淡々と唇が形を作る。長い黒髪に不自然な程黒い瞳、冷めた表情が彼女の繊細さと強い意思の両方を示していた。身長は成人女性の平均より少し低いくらいで、年齢は二十代前半くらいに見えるが、大人びて見えるだけでもっと若いのかもしれない。服装はボタンが幾つも付いている、凝ったデザインのルームウェアを着ていた。手間より好みを重視する性格なのだろう。自分の部屋の中、椅子は近くにあるのだが、彼女は立っている。壁に掛かったホワイトボードには、”不適切 1件 要確認 2件”と青と黒のペンで書かれていた。
「こんな調子じゃ、いつまで経っても変わらないかもね」
「巳様虹乃花は、この世界を、どうしてしまいたいの?」
大して思ってもいない事を、やる気の無い声で鏡に向かってぼやくと、少しだけつまらなそうな顔をして、自分のベッドに腰掛ける。枕元に佇む、小さな犬のぬいぐるみにふと手を伸ばす。何故か右手を軽く握り、そのままストンと犬の顔に落とす。犬は歪んだ顔で笑っていた。それで満足したらしい、その後はもう気にも止めずただ座っていた。
しばらくすると、気を持ち直し冷たいディスプレイとキーボードに向かった。たまにコーヒーを飲んだり、寝そうになったりしていた。そして何時間も忙しく何やら作業していたが、時折手を止めて、少しだけ難しそうな顔をして考え込んでいた。
虹乃花には目的があった。彼女は人類の未来を変えるという、途方もないことを考えていた。そのためには、立ち止まってなんていられないと考えていた。この世界は彼女が考える程度には複雑だったし、曖昧で、大きかった。しばらく考え込んでいると、携帯電話が鳴った。今時珍しい、手打ちの着メロだった。どうやら自分で作ったようだが、あまり得意ではないようだ。画面には片仮名で、”ヒトガタ”と表示されていた。
「はい」
「お久しぶりです、僕です。君からこんなに早くお誘いがあるなんて思いませんでした」
いつもの明るい声だった。対照的に虹乃花は何にも表情を作らない。
「少し困っているの……力を貸してくれますか?」
「勿論です」
「良かった」
「……では明日、午前10時に事務所に来ていただけませんか?」
「わかりました」
それだけの会話だった。虹乃花は余計な事は喋らない、そんな気分なのだろう。それぞれの夜が過ぎていった。

2 失った事を認識する

午前10時前、人形は時間通りに事務所へやって来た。身長は180cmくらいだろうか、背の高い男性だった。スーツを着ていたが、バッグは持っておらず、寒そうに黒いコートのポケットに両手を入れている、年齢は30歳そこそこだろう。少なくともサラリーマンには感じられない、独特の雰囲気を持っていた。
「人形くん、おはよう。早速だけど、仕事の話をして良いかしら?」
「おはようございます、相変わらずお綺麗ですね、僕はいつでも大丈夫です」
人形がソファーに座る。静かだな、と虹乃花は思った。佇まいから存在を感じさせない、まるで映像だけがここに投影されていて、本人はここに居ないような印象。でも虹乃花は知っている、人形は仕事へ対して手を抜かない、今の態度は彼なりに集中した状態なのだろうと。虹乃花が大きなキャスター付きのホワイトボードを、手で押して運んできた。そして、透明なテーブルにコーヒーカップを2つ並べる。また、コーヒーカップの横にノートPCを置いたが、ソファーに腰掛けず、ホワイトボードの横に立ったまま話し始めた。
「あと一時間後に依頼者が来るわ。依頼者は若い女性で、個人的な依頼みたい。内容は多分人探し」
「まずそこで、あなたに何をやって欲しいかと言うと、依頼を聞いている間、私の部下として横に座っていて欲しい」
「ここまでは受けていただけるかしら?」
虹乃花は人形に問いかける。人形は何故か楽しそうな顔をしていた。
「勿論です。ところで、続きがあるのでしょう? そうでもなければ、ただそれだけの仕事で、わざわざ私を呼ばないでしょうから」
「ええ、ありがとう」
「同席するにあたって、お願いが二つあります。もし、会話の途中で私や依頼者に危険が生じたら、守って欲しい。出来れば依頼者優先で、私は自分自身で身は守れるから」
「あともう一つ、依頼内容を注意深く聞いておいて。もしかしたらその後の仕事でも、あなたの力が必要になるかもしれない」
「なんだかこの仕事は、簡単に済まない気がするの。勘、だけど」
ホワイトボードにペンを走らせながら、虹乃花はそう言った。深く暗い瞳が、ちらりと人形の方へ向く。ソファーで座っている人形が、右手を上げる。
「はい先生、今回の仕事の難しさを、どれくらいだと考えていますか?」
「うーん……現在の情報から考えると、客観的には成功率はほぼ100%だと思う。ただ……違和感があるの……何か偶然を越えた事が、私達の知らない所で起きているような……」
不安そうな言葉を並べながら、虹乃花はソファーに腰掛けた。
「あなたがそんな弱気になるなんて、珍しいですね。まだ依頼内容を聞いてすらいないのに……なんだか僕まで、少し不安に感じてきてしまいますね」
全然不安そうでもなく、簡単にそう言うと、人形はコーヒーカップに口をつけた。
「はっきり言って憶測よ、詮無き話。結論としては、今日はただの打ち合わせだけにしようと思うけど、油断しないで頂戴ね、とだけ言っておくわ」
「何かあった時は期待しているからね、人形くん」
人形は虹乃花が何故、こんなに慎重になっているのかがまだわからない。それでも、彼女の役に立ちたいと考えており、また、信頼していたので、油断だけはしないと心に誓った。

3 真実の血清

午前11時、依頼者は時間通りに現れた。事務所のベルが鳴り、虹乃花はそれを迎えた。
「初めまして、巡音奏(めぐるね かなで)と申します。今日はよろしくお願いします」
依頼者、巡音奏がそう言った。身長は虹乃花より5cmは高いだろう、160cm程に見えた。年齢は20歳くらいに見えたが、もしかしたら十代かもしれない。表情の作り方からは、幼さも垣間見えるが、芯の強そうな瞳をしていた。それでいて、今にも消えてしまいそうな危うさも、併せ持っていた。少し特徴的な、紺色の髪と青い瞳が、彼女の人間性をそのまま表現しているように見えた。
「初めまして、巳様虹乃花と申します。どうぞよろしくお願いします……こちらは人形、私の信頼出来る仕事仲間。今回の件が難しくなりそうなら、彼にも手伝って貰おうと考えているわ」
人形が会釈する。三人はソファーに腰掛けており、虹乃花の前にはノートPCが置いてあった。
「お電話でも言いましたが、人を探して欲しいんです」
「名前は錦木真弓、私との関係は友人です。もう二週間も姿を見せてないんです」
「あ、言われた通り、写真と、資料を持ってきたのでご覧ください」
奏が封筒を差し出した。虹乃花がそれを受け取り、内容を確認する。
「コピーをとっても良いかしら? 大丈夫、終わったら廃棄させていただきます」
「大丈夫です」
「ありがとう、調査のためにいくつか質問させてくださいね。まず、最後に連絡がとれた日、わかりますか?」
「2月7日の木曜日のお昼です。週末、遊ぶ話をメールでしてたんです。それが最後で、次の日は会社にも行っていないみたいです……」
「15日前か……居なくなった理由に心当たりはありますか?」
「無いです……仕事は上手くいっていたみたいですし……」
「……付き合ってる方とかは居たのかしら?」
虹乃花はコーヒーカップに口をつけながら、ちらりと視線を送った。奏は、両手でマグカップを持ち、熱そうにココアを飲んでいた。
「居なかった、はずです。少なくともここ一年くらいは、そんな話は聞いていません。しばらくは仕事に集中したかったみたいで」
「交友関係はどうかしら? 出掛けることは好き? よく行くお店があったりするなら教えていただきたいです」
「わかりませんが、真面目で、インドア派な子でした。料理が趣味で、たまーに私も食べさせて貰ってました」
虹乃花が質問し、巡音奏がそれに答える。虹乃花はノートPCにメモを取りつつ、それを聞いていた。人形は、奏の見た目が気になってあまり話に集中出来ていなかった。
「なるほど、手がかりは今のところ無いって状況ね。私が探偵だったら、もう少し掘り下げるのだろうけど、これくらいにしておきます」
「やはり難しいですかね……探していただけないのでしょうか……」
「いや、もう十分状況は理解しました。後は私のやり方で進めます」
「ありがとうございます! やっぱりここに来て良かったです」
奏が微笑んだ。全く人に悪い印象を与えない、お手本みたいな笑顔だった。
「そう、そこが気になっていたの。私の事はどうやって知ったの? 普通、個人じゃまず辿り着かないはずなのに」
「……言って良いのかわからないけど、隣人愛(隣人愛)と名乗る方から教えていただきました。私が真弓さんの家族と一緒に、駅前でビラを配っていた時」
「ああ、大体察したわ……愛め……」
「あの……ご迷惑だったでしょうか? ご、ごめんなさい、こんな聞き方するのせこいですね……忘れてください……」
「いや、こっちの話だから良いわ。ちょっとすっきりしたから」
「次の話に入りましょうか。成功の定義と、期間と、お金ね。私は人件費ベースの見積りなんてしないから、成果に対する報酬が良いわ」
「……お金なら、150万円までならすぐ出せます、それ以上は、少し時間をください」
何故か奏は少し泣きそうだった。可愛い子ね、と虹乃花は思った。人形は、この見た目で、普段この子は何をしているのだろう、と考えていた。
「それだけあれば足りる、最悪足りなくてもやるけどね。まずは、真弓さんを見付けるわ。3日あれば十分かな、そこまでで80万もあれば足ります。それ以上の何かを望むなら、また相談しましょう」
「ありがとうございます。お金はもう持って来てます、今払わせてください」
虹乃花は奏から報酬を受け取る。封筒のお金の入れ方、紙幣の状態から何回で引き下ろしたか、お金の束ね方、細かい情報から考えると少し引っかかる点があるな、と虹乃花は考察する。しかし特に何も言わなかった。
「ところで、ちょっと聞くのが怖いのですが、それ以上って何でしょうか?」
「そうね……例えば真弓さんが何か犯罪に巻き込まれていたとして、それを警察に頼らず解決したい、とかね。まあ、今はそんなに気にしなくても良い気もするわ。見付けてから考えましょう」
「進捗については日次で正午までにメールでご連絡します。3日後に結果を報告で構わないでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「では最後に……何か言っておきたい事はありますか?」
「こんなの気休めかと思いますが、私も……何かお手伝いしたいです」
奏が虹乃花を見つめた。紺色の瞳は、持ち主の感情図を示しており、真っ直ぐな気持ちと不安を表現していた。対照的に、虹乃花の瞳は何も語らない。彼女の眼には、何もかもが全て等しく、一つの色として映っていた。不自然な間、といっても4、5秒程度だったが。
「構いませんよ、それではまた明日の13時に、ここへ来てください。明日は多分事務所で資料を集める予定です」
「わかりました、ありがとうございます」
「では以上となります、ありがとうございました。私は早速取り掛かりますので、また明日お会いしましょう」
「はい、ありがとうございました。明日また来ますので、よろしくお願い致します」
奏が事務所の扉を開け、外へ出て行く。まだ何も解決していないのに、少し明るい顔をしていた。虹乃花に触れ、そこで得られた情報から彼女を信頼したのだろう。
「彼女、かなり個性が強いのに、随分綺麗な水で育ったみたいで、全然心が曲がっていなかったわね。もしかしたら、ちょっとやりにくいタイプかも」
虹乃花が立ち上がり、窓から外を見ていた。二階の窓から見える景色は、彼女に感動は与えられないが、少しだけ安心させる。
「僕は信頼出来そうだと思いました。ところで、仕事は大丈夫ですか? まだ仕掛かってもいないのに、こんな性質の仕事を三日で解決するだなんて……」
「それは大丈夫……問題は見付けた後よ……愛が絡んでいるなら、嫌な展開が用意されてそう。大企業絡みとか」
「確かにそうですね……」
二人は、しばらく何も話さなかった。虹乃花は窓辺で、人形はソファーで、ただ微睡んでいた。仕事の前のルーチンだろうか、それとも疲れたのだろうか。いや、これは二人なりの、コミュニケーションの形かもしれなかった。人の外側から内側の情報を知る方法に、完璧な方法なんて元々存在しないのだから。

4 猫

午前12時、巡音奏は考えていた。都内某所、幸神駅の南口、虹乃花の事務所の近くのカフェで時間を潰す。虹乃花の言う、自分のやり方とは? 愛さんって何者なのだろう、一般人ではないの? 真弓はどうしていなくなったの? 疑問符ばかりが頭に浮かぶ。2月もそろそろ終わる頃で、外は寒かったが、冷たいココアを飲む。彼女なりに、どうやら決意があるようだ。外が見える席で、ぼんやり行き交う人達を眺めながら考える。自分にすべき事はなんだろう、出来る事はあるだろうか、と。まだ店に入って10分も経っていないが、なんだか落ち着かなくて席を立つ。少し散歩してから事務所へ向かおう、そう考える奏の表情は、泣くことを我慢しているみたいに見えた。涙を抱えたまま店を出て歩く、そんな彼女の後ろを、白い猫が歩いていた。野良猫だろうか、首輪はしていなかった。後ろを歩くだけであまり近寄らず、まるで奏を心配しているみたいに見えた。交差点、奏がふと後ろを見ると白猫に気付いた。白猫は、警戒するように歩みを止める。対照的に奏は笑顔を作ると、近付いて話しかけた。
「愛さん、こんにちは。こんな場所で会うなんて、奇遇ですね」

五 透明な橋を架ける

午後1時、巡音奏は約束の時間に虹乃花の事務所へ到着した。
「お邪魔します」
「いらっしゃいませ、時間通りね。あら、そちらの猫はあなたのペット?」
虹乃花が奏の隣の白猫を見た。
「え、猫ですか?」
「うん、その白猫。上品で可愛いわね」
「猫なんていませんが……」
奏が困った顔をする。虹乃花は急に真面目な顔になった。白猫が虹乃花の方を見る。
「虹乃花、久しぶりね」
白猫がいきなり人間の姿になった。年齢は20歳くらいだろうか、肌の白い女性だった。背は155cmくらいで、チョコレートのような髪色に、赤いコートが似合っていた。
「ああ、愛か、久しぶりね。ところで、どういうこと?」
「驚くわよね、彼女、私の能力が通用しないみたい。どうなっているのかしら? 認識を被せているだけとはいえ、カメラすら騙せるのに」
「わからないわ……まあ立ち話もあれだから、とりあえず入って」
三人はソファーに座った、既に人形は来ていたようで、壁を背にして立っていた。何も言わず、ただ下を向いていた。
「人形じゃないの……虹乃花、まだあんな怪物と付き合っているの?」
「仕事仲間よ、でも、私は良い人だと思ってる」
「相変わらずね、あなたの価値観は尊敬に値するわ」
そう言いながら、隣人愛はスティックシュガーをまとめて三本開封する。あっという間に、砂糖はコーヒーカップに吸い込まれていった。
「あ、あの、今日はどう進めるのでしょうか?」
奏が控え目に意見する。紺色の瞳が虹乃花と隣人愛を交互に見つめた。
「そうね、始めましょうか。多分、愛が来た以上、殆ど仕事は済んでしまっている気がするけど」
この言葉を受け、隣人愛が鞄を開け、中からクリアファイルを幾つか取り出した。それをテーブルに並べると、静かに語り始めた。
「一次報告ってレベルだけど……まあ、大体調べはついたわ」
「今回の報酬は要らないわ、理由はあまり言いたくないけど」
虹乃花が微かに不満気に、隣人愛の方へ視線を動かした。しかし、この段階では深くは考えない。二人には信頼関係があったからだ。
「結論から言うと、居場所はわかったけど姿は確認出来てない。でも、まず間違いなく犯罪に巻き込まれていて、生死は不明」
「具体的には、個人宅の中に居るわ。場所は茜町、梔子駅の近く」
「良い場所に住んでいるわね……あ、ごめんなさい。私の依頼人に飲み物を持って来るからちょっと待ってて」
そう言うと虹乃花が立ち上がる。奏は真剣な表情でただ前を向いていた。
「またココアで良いかしら? それともそろそろお茶でも飲む?」
「ありがとうございます、ではココアをいただきます」
虹乃花が少し微笑んだ。マグカップにココアを注いで静かに席へ戻る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「この後あんまり良い話が続かなそうだけど、大丈夫ですか? 私だけ聞いても平気ですが」
「いえ、大丈夫です。聞きたいです」
奏が両手でマグカップを抱えながらそう言った。少し手が震えているが、もう覚悟は決めているようだ。虹乃花は少し迷ったが、ここは成り行きに任せる事にした。奏の精神に余計な負荷を与えたくなかったが、彼女には権利があると考えたからだ。
「わかったわ、愛、続けて下さい」
「待たせておいて乱暴ね、えーと、場所は茜町の個人宅」
「ここに一人の人物がいます。詳細はまず資料を見て」
二人が資料を手に取る。それは一人の男性についての資料だった。奏が真剣に資料を眺める、対象的に、虹乃花は全く感情が無いみたいに、淡々とページを捲った。その中の写真を見て、少しだけ眼を細めた事を隣人愛は見逃さなかった。
「ちょっと、こんな奴がよくまだ捕まってないわね」
「ええ、私も調べていて正直ちょっと引いてました」
「いやいや、笑えないわよ」
「あの……これ、本当なんでしょうか……真弓さんの他に10人以上なんて……」
「ええ、間違いないわ。駅やコンビニの監視カメラにも写っていた。近所の人に聞き込みもしたし、昨夜は直接自分の眼で、彼を見に行って確認もしたわ。警察も動いているみたいだけど、犯人はわかってないみたい」
「そうなんですか……」
「ただ、動機が見えないのよね。たった半年で、どんな気持ちになれば、一人の人間がこんなに出来るのかちょっと予想出来ない」
「この贄沢って人、普通の人間なのかしら? かなり怪しい」
虹乃花がコーヒーカップに口をつける。
「そうよね、死体の処理方法も未知なの。車も小さなクラシックカーだし、家の間取りも普通だった」
「怪しい団体の繋がりはないのかしら? 被害者の年齢層の高さから、あんまりそんな気はしないけど」
「調査の中では確認出来なかったわ、元々金銭的には満たされているみたいだし」
「うーん、大体わかったわ。ありがとう……もう少し調査したいけど、一旦まとめて、方針を決めましょうか」
「奏さん、居場所はわかったけど、どうしましょうか? はっきり言って真弓さんは、危険な状況にあるみたい。この後は警察に任せるか、我々で何とかするか」
「……ええと、私は真弓さんを助けたいです。なので、巳様さんにお願いしたいです。警察へ連絡するタイミングは、巳様さんにお任せしたいです」
虹乃花がコーヒーカップを持ったまま立ち上がった。そして、静かに窓辺に移動する。
「うーん……多分、それが正しいかもね……なら愛、あなたにも少しだけ手伝って貰いたいわ」
「勿論、お手伝いさせていただきます」
隣人愛が微笑んだ。
「……奏さん、わかりました。引き受けましょう」
虹乃花は迷ったが、決断した。その選択の重要さを理解した上で。
「ありがとうございます! でも……危ない事はしないで欲しいです……」
「わかったわ、じゃあ、私の判断でここからは進めさせて貰うわね」
「まず報酬なのだけど、愛、実は奏さんから調査費用として、既に80万円を貰ってしまっているの」
「そうなんだ、ちょっと安すぎる気もするけど、まあここまでは私の仕事だから良いでしょう。余っているなら、この後の仕事のために使えば良いんじゃない?」
そう言うと思ったわ、と虹乃花は内心苦笑する。そしてこの言葉で、隣人愛の目的もほぼ見えたが、今は何も言わないことにした。
「わかったわ……」
「では、今後の進め方を話しましょう」
虹乃花はペンを持つと、ソファーの横にあるホワイトボードの隣に立った。ペンは滑らかにボードの上を滑る。”目的”、”解決方法”、”事前調査”、”スケジュール”と書くと、ソファーの方へ視線を戻した。
「えーと、まず目的。これは明確ね、錦木真弓を救い出すこと、これが優先される。依頼者の想いね。で、次に私としては、他の被害者もついでに救いたいと思っている。ちょっと甘いかもしれないけど、私はこの立場を取るわ」
「贄沢はどうしますか?」
人形が初めて口を開いた、確かに、決めなければならないことだった。
「まずは、現在の目的を優先するわ。錦木真弓を救出してから考える。別に私は神様じゃないから、人は裁けないわ」
「わかりました」
「わ、私は反対です……」
「どうして? 奏さん」
「……彼は……野放しにしてはいけないと思います、それに、事実を知っていて放置するなんて……悪い事だとも思います」
「……あるべき論ね、あなたは間違ってない……ただ、正義は我々の手の中にいつもある訳ではないわ……。私だって、現場の状況が想定を越えていたら、その場で贄沢を殺してしまうかもしれないわ……」
「ご、ごめんなさい、巳様さんに困って欲しくはないです。でも、彼に罰は必要だって思います」
「そうね、勿論放置はしない。でも、真弓さんを救出した後に検討したいの。被害者から、細かな話しを聞いてから」
「ありがとうございます……」
「……次に解決方法ね、これは、直接贄沢の家へ乗り込む。特に誰も異論は無いわね?」
「異論はありません」
まあ、それしかないだろうと人形は考える。隣人愛は微かに楽しそうな顔、奏は真面目な表情で唇を結んでいた。
「次に事前準備ね、彼の家の中についてもう少し知りたいから、そのための調査」
「これは私が一人でやるわね、愛にばかり仕事して貰ったから、私の仕事は殆ど残ってないけど」
「内容としては、クレジットカードの履歴を追うことと、侵入方法を検討するわね。少し寝たいし、それで足りると思う」
「で、最後にスケジュールね。担当もここで決めさせて貰うわ」
虹乃花はペンを持ち替える、色を変えるようだ。
「まず、突入は明日の朝9時にします。贄沢が仕事の時間を狙います。ここを出るのは8時、適当に車は借りて用意する」
「明日ですか」
「ええそうよ、人形くん、何か懸念がありますか?」
「いえ別に、準備期間がほぼ無いので装備を心配しました。僕以外の」
「確かにそうだけど、一日で生存率がかなり変化しそうだから、明日にしたいわ」
「わかりました、僕は異論無しです」
隣人愛は黙って頷く。
「では決まりね。次に、担当だけど、突入は、私と人形くんで行うわ」
「愛と奏さんには、バックアップをお願いしたいの。具体的には、現場付近で待機していて、私達が何か困ったら手伝って欲しい」
「構わないけど、意図は何かしら?」
「意図は、何かを運んで貰うことかな。もしかしたら、何人も救出出来るかもしれないから。あと、私達がやられてしまう場合ね。その場合、死体を回収して欲しいの。最悪、頭部だけでもお願い」
「うーん、少し不満だけど、まあ、それで構わないわ。あなたが死ぬなんて、とても考えられないけど」
「私もそう思うけど、それはいつでも起こりうるからね」
「では大体こんな感じかな、質問が無ければ、解散にしましょう」
虹乃花が向き直った。その後は、人形だけ残り、細かい打合わせをしたようだった。

5 涙の歴史

午前9時、都内某所、茜町の高級住宅街で、何かが起ころうとしていた。
「そろそろですかね」
人形が呟く。服装は黒のスーツだった。意外と着慣れていることが着こなしで見て取れるが、意図はわからない。
「ええ」
虹乃花はバッグを持たず、何故か右手だけ白い手袋をつけていた。恐らく何かの操作に使用するのだろう。
「この手袋はただの小道具。あれば確かに便利だけど、実は無くても良いし、左手でも操作出来るわ」
まだ聞いてもいないのにそう答えた。何を操作するかには触れなかった。
「しかし無意味に高い柵ね、何を隠しているのかしら」
目的地を前に緊張する人形とは裏腹に、虹乃花は少し楽しそうだった。人形には、彼女の感情が浮かぶ原理がわからない。人形は考える、今までと、これからを。彼女のことがわからないのは、自分はこんな生き方を選んでおきながら、あまりにありきたりな精神の形をしているからだ。巳様虹乃花は怪物で、自分は凡人だった。けれども自分はそんな彼女が好きだった。怪物と形容しておきながら、生い立ちは自分の方が随分特殊であったけど。彼女は両親の間、幸せの中で誕生した存在だった。でも自分は、子宮から生まれてすらいない。彼女には過去がある。学生時代や、戦争体験、両親の死別、そして現在の、いつでも死を身近に感じる仕事。なのに、彼女はどうして、あんなに平気で居られるのだろう? こんな世界を、どうして守りたいと思えるのだろう? 自分はそれが知りたいだけなのだろうか。自分は……彼女に比べれば空っぽだ。ただ知りたくて、知りたくて堪らなくて、気が狂いそうだった。自分自身のことなんて、自分でもわからないままで、ただ彷徨うように生きてきた。いや、それすらもどうでもよく、結局は誰か縋りたいだけなのだ。ああ、なんてつまらない、なんて無意味な存在なのだ。短い期間にただ生きて死ぬ、蜉蝣の方が、僕よりも幸せなのではないだろうか。だけどそれでも、彼女の役に立ちたいと思うよ。それだけが、僕の魂を救ってくれる気がするのだ。
「そういえば、デバイスのスイッチは入れているわね? 私の近くなら別に平気だけど」
その言葉で、人形は自分勝手な思考を止め、我に返る。
「勿論です。僕の能力と余計な干渉が無いことも検証を済ませています」
「では、入りますか」
人形がそう言うと、塀に近付いた。すると、コンクリートの塀の一部が無くなり、綺麗に手入れされた中庭が見えてしまった。人形の能力だろうか、まるで空間そのものが無くなってしまったようだった。無くなるまでの過程を全て飛ばしてしまったような、明らかに人の領域ではない力。何が原因となり、この結果を導いたのか、側で見ていてもまるでわからない。
「あら、可愛いわね」
虹乃花は人形の能力を無視してそう言った。見慣れているのだろうか。塀の無くなった部分から、中庭が見えており、中には数頭の犬が放し飼いにされていた。品種はボルゾイだと思われた。
「どうします? このまま入ります?」
「勿論。ちょっと可哀想だけど、彼らは静かにさせるわね」
そう言うと、真っ白なライフルをコートの内側から取り出し、キリキリと何かを動かした。そして、犬に狙いをつけて引き金を引いた。音も無く撃たれた犬は、特に外傷は見られなかったが、足を折り、ゆっくりと眠ったように見えた。
「半日は起きないわ、行きましょう」
虹乃花がさらりと言った。ライフルはしまって、何故か右手を眺めている。
「そんなのありですか」
人形が一応突っ込んだ。
「やっぱり、可哀想だったかしら」
虹乃花は淡々と的外れな返答を返す。
建物の前に着くと、人形がまた壁を消し、二人はあっさりと中に入った。
「入れたわね」
「はい」
人形はそう答えながら、先日の打ち合わせを思い出していた。
「入れるかどうかですか? 我々二人がかりでも入れない家、なんて考えにくいですが」
人形は素直にそう言った。彼には入れない場所なんて殆ど無い。
「うーん、予想として、入れない場合が大きく二通りあるの」
「一つは、侵入者を想定して何かしら手を打っている場合」
「もう一つは、元々空間そのものが、思考の上にしか存在しない場合」
「前者の場合は攻略するわ、後者の場合は一旦諦める。なので、今回は入れる場合を想定します」
「入れる場合は、大抵特定の部屋をそれに利用しているから、探しましょう」
「地下室とか、自分の部屋にカギでもかけて使っているとか」
「怪しい物を探しましょう」
「あんまり離れないでね、危険だから、私が」
勝手に回想シーンに入る人形に、虹乃花が話しかける。
「わかりました」
入った部屋はたまたまリビングで、一人暮らしにしては随分広かった。床も壁も、一般的な業者が建築したのだろう。家具も変わったものはなく、あまり情報を得られない。
「私の部屋もこれくらい欲しいわね」
緊張感の感じられない呟き。リビングには目立ったものは無く、かえって怪しいくらいだった。
「二階へ行きませんか」
彼は独自の感覚から、上に何かあると察知していた。彼の目から見て、一階は無防備過ぎて何も感じなかったのだ。
「いいわよ、でも本棚があったら先にチェックさせて」
二人はリビングを出て、階段を上った。薄暗い階段で、虹乃花の胸のペンダントだけが、優しく光っていた。階段を上ると廊下に繋がっていて、扉が3つ見えた。
「右が怪しいわね」
虹乃花の適当な台詞を人形は無視した。いや、答える事が出来なかった。彼には既に、壁の向こうが見えていたからだ。
「何か見えるの?」
虹乃花が察した。
「当たりですね、右の部屋が我々の探していたそれです。真弓さんではありませんが、女性が居ます」
「ただ、全く動きませんし、呼吸もしていません。腕に何か刺さっていますね……ですが、そんなに血が出ていません。でも何となく死んではいない感じがします……でも心臓も止まっているし……」
「あと、奥に部屋がまだあるみたいですね。うーん、建物の構造を無視しています。これは不味いケースかもしれませんね」
人形が見たままを伝えた。彼には壁が透けて見えるようだった。
「間違いないわ。まあ、想定内には悪い部類」
「さて、少し考えましょうか……」
虹乃花が落ち着いて言った。
「中へ入りますか? もしかしたら、まだ生きている人がいるかもしれない」
その声には、冷めた虹乃花とは対照的に、彼なりに人を助けたい感情が混じっていた。
「待って。考える事、それが重要よ」
「時間的な制約はそんなに厳しくないはずだわ」
「だって贄沢は、やりたい事を済ませて部屋を出たはずだから。昨日は休日だったしね」
「生かしたいなら、夕方までは生きているでしょうね」
虹乃花が淡々と言葉を紡ぐ。全てを飲み込む黒い瞳は、相変わらず何も語らないまま、嘘も真実も等しく見つめていた。
「あなたが言ったこと、勿論信じてる。それを聞いてちょっと気になったのだけど」
「この部屋、もしかして時間が止まってるんじゃないかしら?」
人形がまさかと言う顔をした。虹乃花は気にせず話を続ける。
「扉を開けたら時間が動くのかも。それで、そうしたら、彼女は死んでしまうのかもね」
人形がまた部屋の中を見る。確かに、人形ではない生身、生命活動は停止している。しかし、まるで時間が止まったみたいに綺麗なままだった。それに血も乾いていない。
「そうみたいです。困りましたね」
人形が困った声で言った。時間が止まった部屋なんて、まずあり得ないと思うのに、虹乃花が言うと何となく信じてしまうのが自分でも不思議だった。自分の感覚器官で得た情報なんて、彼女からすれば断片に過ぎないのだろうな、と人形は考えていた。
「まあ、多分近いものでしょうね。わかったことは、贄沢は、神に嘘を吐いている。それに、少なくとも認識の心象層まではコントロールしているみたい。ならば、私達もその気で望む必要があるわ」
「あなたには今更かもしれないけど、こんな人間を相手にする場合の基本原則を思い出しましょう」
「相手が認識によって、この場を構築していると考えるの」
「そうすれば、答えが見えてくるはずだわ」
「…………」
しばらく虹乃花が黙った。何でも即答する彼女には珍しい事だった。あまり敏感ではない人形にも、虹乃花が、先ほどまでと違う状態になっていることが感じられた。そして、15秒もすると口を開いた。
「……これは私の考えだけど、おそらく」
「私達がこの扉を開ければ時間は動くわ」
「ただ、扉を閉めただけでは時間は止まらない、時間を止めるには鍵が必要だと思う」
虹乃花が自分の考えを述べた。
「どうしてそう思うのですか?」
人形は、扉、もしくは鍵の開閉がトリガーとなって、時間が停止と再生を繰り返すのではないかと、何となく考えていたからだ。
「状況と、贄沢の性格、思考レベルから見て、かな」
「多分、時間を止める方法は複数あるわ。だってこの部屋、中が見えないし」
あまり説明になっていなかったが虹乃花が答えた。見える人形には気付けない答えであった。
「なるほど、ではどうします? 扉を開けますか?」
「開けましょう。あ、消さないで、私が開くわ」
今度は即答だった。虹乃花はコートの左ポケットから細長いプレートを取り出すと、鍵穴に差し込み、回した。まるで初めから決められていたみたいに、何の抵抗も無く鍵が開く。
中は8畳程の広さで、中央に拘束台、若い女性が繋がれていた。壁紙も床も他の部屋と同じだった。奥には、物理構造を無視した扉が存在するだけで、殆ど何もない部屋だった。何故か冷蔵庫が置いてあるが、中を見たがる人間は少ないだろう。
「大丈夫ですか? 助けに来ました」
「腕から生えているそれは抜くわ、ちょっと失礼するわね」
虹乃花はそう言うと、いきなり横たわる女性にライフルを向け、発砲した。すると、女性は気を失った。
「大丈夫、すぐに眼を覚ますわ」
そう言うと、彼女の腕に刺さっている金属を抜いて、どこからか取り出した、包帯に似た白いテープを腕に巻く。明らかに動脈に触れてしまっている出血が、それだけで止まってしまった。
「さあ、起きて」
その言葉を受け、女性は眼を覚ました。
「怖かったでしょう、助けに来たのよ」
「腕はもう大丈夫、そんなに悪い怪我じゃない」
虹乃花が優しく言った、少し笑顔まで浮かべていた。素敵な作り笑いだな、と人形は思った。
「……ありがとうございます。いきなりで、気付いたらいきなりここで、夢でもなくて……」
女性が感謝の言葉を述べる。泣きもせず、こんな状況にしては落ち着いていた。一度気絶した影響だろうか。
「良いのよ、帰りましょう。外に私達の仲間が居るから、そこへ行きましょうね」
二人は彼女を外へ案内した後、奥の部屋へ入ることとした。奥の部屋の扉の先は、人形にも見えなかった。彼にとっては珍しい経験だった。怖いな、と人形は素直な感想を抱く。扉の向こうが見えない、そんな当たり前の事さえ、彼には不慣れであったのだ。そんな人形を無視して、虹乃花が扉を開ける。巳様虹乃花は迷わない。いつだって決断し、物事に立ち向かう。不確定要素なんていつものことで、理不尽は恋人みたいなものだ。その結果、死んでしまっても構わないし、それすらも結果の全てではないと考えている。扉の向こう側は、少し明るくなっていた。虹乃花に続いて、人形も部屋に入る。
扉の向こう側は、建物の広さを無視して不自然に広い空間だった。小さ目の体育館ぐらいの広さはあるだろうか。まず目に入るのは、中央に配置された、2つ並んだ拘束台。冷たく、無機質で、悪趣味の象徴のようなデザインだった。付近に台があり、ありきたりな拷問器具が散らばる。透明なチューブが数本置いてあるのも見えた。また、今度は透明な冷蔵庫のような箱が置いてあり、中には小瓶に様々な色の液体が格納されていた。また、黒い床と赤い壁も何だか落ち着かない、人形は状況がまだよく飲み込めていなかった。横には何に使うのかわからない大きな黒いソファーが、複数配置されていた。更に、壁際には大きな水槽が2つあり、片方には、見たこともない魚が泳いでいた。その近くには、木製の小さな階段と、門のような物が設置されていた。壁には絵画が複数飾ってあり、殆どが抽象画であった。
「絞首台ね、それも、かなり拘っている。結構吊った上で、改良を加えているわね。少し魅力すら感じるわ。そしてわかったわ、彼は、殺すことより苦しませることが目的みたいね。これは重要な情報」
虹乃花がさらりと言った。階段を数段上がり、何やらロープを見つめている。部屋の中はとても静かで、虹乃花の声がよく響いた。
「まあ、大体ターゲットの人格は把握したわ、生きている人間を探しましょう」
動けない人形を急かすように、虹乃花が続けた。よく見るとこれだけ広い部屋なのに、壁を見るとまだまだ扉があった。
「全部が広かったら面倒ね。しかし、思ったより整理されているわね、これはかなり手強いかも」
二人はその中から、不自然に大きな、青い扉を選んで部屋の中へ入った。中は、真っ白な空間だった。ご丁寧に、扉の裏側まで白く塗ってある。白い部屋の中央に、大きな箱が置いてあり、中が所々透けていて、中に少女が一人、箱と一体化しているのが見えた。肌の色から、生きていると推測されるが、手足を拘束され、およそ自由と呼ばれる何もかもを奪われた姿は、とても悲しく見えた。
「増幅器! やるわね……」
「虹乃花さん、この不気味な箱は一体なんですか……不幸の固まりですかね……」
人形が箱に触れる。触れた部分と指先が、まるで怪我をしたみたいに少しだけ赤く滲んだ。
「触らない方が良いわ。これは人の人生を奪うことで、エネルギーを得る機械よ。民衆の搾取の象徴、16世紀から構想だけはあったけど、当時は誰も実現化出来なかった。私だって、実物を見たのはまだ三度目。かなり個人的趣味が入っている苦痛の与え方が見えるけど、それを差し引いても優秀。対象の希望を完全には奪わない、基本を抑えている。私の部下に欲しいくらいだわ。性的倒錯は見えるけど、コンプレックスの色が思ったより弱くて、動機がよく見えないのが気になるところだけど」
「……どうすれば中の人を助けられますかね?」
「まあ、見てて。いきなり外すと脳が焼けたり精神が壊れたりするから、まずは電源を落とすの。そして電源もいきなり落とすのではなくて、10秒くらいかけて落とすの。右手が活躍するわね」
虹乃花は箱に近寄ると、右手を当てた。白い手袋が青白く光ったように見えた。そのまま手を当て続けると、透明な箱が、まるで水が濁るように暗く、中が見えない状態へと変化していく。10秒程で、箱は黒く染まった。
「あれ、中から鍵がかかっているわ。まさかこの子に閉めさせたのかしら……なかなかの発想ね」
虹乃花はコートの下から、白いリボルバーを取り出し、ある点を狙って発砲した。乾いた銃声が響いた後、箱の一部が外れ、中から一人の少女が外へ吐き出された。服は着ておらず、表情はほぼ無く、髪も伸び、身体も汚れた状態だった。手足と首に不自然な傷があったが、二人は何も言わなかった。虹乃花は少女を抱き上げて、優しく言葉をかけた。
「もう大丈夫よ、私の仲間が外へ居るから、そこで保護させてくださいね」
虹乃花が少女を抱え、隣人愛と奏まで預けに行った。少女は驚く程軽く、虹乃花は少しだけ悲しそうな表情を見せた。
「人形くん、大丈夫? 地獄はまだ続くわよ? あれこれ悩むのは後にして、今は、目的を達成することを考えましょう」
「ええ、これくらいなら大丈夫です……慣れてますから……」
「なら良いけど……危なくなったら、あなたのこと、実は頼りにしていますからね」
「それは任せてください、僕は人間相手なら負けませんし、生き残ることが特技です」
「ところで、増幅器を壊したことで、もう扉の向こうが見えないかしら? 私の端末も、もう正しく動作している」
「あ、確かに見えますね。何故でしょう?」
「ざっくり言うと、贄沢が考えたルールを、増幅器が守っていたのだと思うわ。それが無効化されたはず。でももしかしたら、相手に気付かれたかもね、早く済ませましょう。生体反応が全然無いから、少し不審だけど」
虹乃花は、この機械を壊すこと自体がリスクであると知っていた。しかし、人形の様子から、こちらの方が得だと判断し、この結果を導いた。この判断がどう響いてくるかはまだわからない。白い部屋は行き止まりだったので、二人は広い部屋へ引き返す。先ほどは存在しなかった本が、数冊落ちているのが見えた。分厚い専門書や、ビジネス関係の雑誌だった。
「ああ、多分、見せたくない部分が見えているだけよ、気にする必要は無いわ」
人形にはまだ理解が追い付いていなかったが、とりあえず納得することとした。ここでは常識が通用しなくて当然だ。何故なら、人の意識から作り出された、嘘を前提にした空間なのだから。
「ところで人形くん、何か見える?」
「……虹乃花さん。我々は失敗したかもしれません……、右から三番目の部屋で、真弓さんが死んでます」
二人は扉を開け、中に入る。部屋の中は、ありきたりなビジネスホテルの一室のようなデザインだった。ベッドの横の壁に絵が飾ってあり、何故か額縁には、何故か顔だけぬいぐるみになっている男性が横たわる姿と、”解体ショー 始めました”という文字が刻まれていた。錦木真弓はそこに居て、ベッドで眠るように存在していた。
「うーん……完璧に死んでいるわね……窒息死かな……」
素早く近付いて、死体に触れ、細かく調べながら虹乃花が呟いた。まるで買ったばかりの機械仕掛けの腕時計を眺めるみたいに、大事そうにその身体を扱う。
「おかしい、まだ死んでから5分くらいしか経っていないように見える」
「確かに、亡くなったばかりに見えますね……多分、上から両手で首を締められてます……しかもかなり優しく締めてますね……これは苦しそうだ」
「うーん……人形くん、この状況、ちょっと危ないけどチャンスかも。すぐ部屋を出るわよ」
虹乃花の言葉に促され、二人はすぐに部屋を出た。先ほどは存在しなかったポスターが複数壁に貼られている。ポスターの割合に比べて、随分小さな兎が描かれていて、大きな字で、”ウサギは涙を流さないから、この実験には最適だ”と書かれたもの。細いペンで丁寧に塗り潰したように、不自然に黒く塗られたものが見える。他にも沢山貼られていたが、人形はもう見る気にもならない。
「出口が無いわね、まあ、想定通りだけど」
「あ、本当ですね」
「人形くん、一つお願いです。しばらく隠れていてくれません? 多分贄沢はもうすぐここへ来るわ。ちょっと私、会話したいの」
「わかりました……でも、あなたが危なくなったら飛び出しますよ。その時は、あなたがなんて言おうと、贄沢は殺してしまいますからね?」
「ありがとう」
すると、人形の姿が見えなくなった。虹乃花の右手の上に浮かぶモニターにも、映らなくなった。彼がその気になれば、何処へでも侵入出来、凡そどんな目的も、達成出来てしまうだろう。
「では、私は適当に部屋を漁りますか」
人形がこっそり聞いてくれていることを期待した独り言。虹乃花は一人で部屋を探索する。専ら拷問器具に興味があるようで、一つずつ手に取って眺めていた。少し無機質なものばかりでつまらないな、と勝手な感想を抱く。その時、後ろでドアを開く音がした。虹乃花は咄嗟にそちらを振り向く。すると、部屋の持ち主がそこに居た。

6 独り善がり

「ダメですよー、人の部屋に勝手に入っちゃ」
年齢は大体35歳くらいだろうか、グレーのスーツ姿で、細身で背の高い男性がそこへ立っていた。はっきりとした顔立ちで、ミステリアスな雰囲気を持っている。確実に法に触れる行為をあばかれているにも関わらず、その態度は不気味に落ち着いていた。人形は考える、彼の心理を。侵入者が一人で、若い女性だからだろうか。あるいは、彼の心はもう、自分が生み出した虚構と現実の区別が、はっきりとは付かなくなっているのだろうか。しかし、大抵の第一印象は後に覆される。
「贄沢さんですか? お邪魔しています。失礼しました、少し確認したいことがありましたの」
「………………そうですか、あなたのような方でしたら、声をかけてくださればいつでもご招待しましたのに」
「それはどうも。ところで、錦木真弓さんについて認識はありますか? 向こうの部屋で死体になっていましたけど」
「……ああ、勿論、知ってますよ。二週間くらい前ですかね、声をかけたら引っかかりました。あなたは少しだけ勘違いなさっているようですね、彼女はまだ生きてますよ」
贄沢が、静かに部屋の中を歩く。そして、迷いなく、右から三番目の部屋のドアを開ける。贄沢が声をかけると、中から女性が現れた。
「ほら、生きてます」
「あれ、贄沢さん。この方はどなたでしょうか?」
確かに錦木真弓は生きていて、贄沢へ親しそうに話しかける。愚かだな、と虹乃花は心の底から思ったし、この瞬間、何故かほんの少し、錦木真弓に苛立ちすら感じていた。
「……最低ね」
虹乃花が吐き捨てた。おそらく贄沢は、真弓さんを何度も殺害している、そう推測したからだ。
「わからない、今、初めて会ったから」
「それって……きゃっ」
真弓が崩れ落ちた。虹乃花が発砲した結果だ。
「邪魔なので眠らせました、問題無いかしら?」
「ええ、構いませんよ。あなたは優しい人みたいですね。でも、そんな物騒なものしまってください。ところで、あなたが何しに来たか、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?」
「仕事で来たわ、依頼を受けて。ミッションは、錦木真弓を救出すること」
「そうなのですね、別にそれぐらいなら構いませんが、あんまり私はこのことを人に騒がれたくありません。例えば、あなたをこの場で拉致して殺してしまったら、どうなるでしょうか?」
「無駄よ。その辺は想定しているわ、こんな案件、いくつもあったからね」
「あまり拷問は得意じゃないので、あなたから情報を引き出せる自信が、まだあんまり湧きませんね。でもどうしましょう……私はあなたの中身が、見たくなってきてしまいました……やるだけやってみようかな……と。人生は挑戦の繰り返しだって誰かが言ってましたし……」
贄沢は真っ直ぐ虹乃花を見つめる。彼の眼には、人間と新しい雑誌が同じくらいに見えているのだろう。人形は少し呆れてそれを観測していた、贄沢の発言は、概念としての死に触れたことのない人間のそれだったからだ。こんな程度の人間のために、私は駆り出されたのか、と。その視線を、漆黒の瞳は何も語らず受け止める。虹乃花は人形とは違い、おそらく生身の人間だ。胴体と首が離れればもう動けないし、ナイフで刺されれば死んでしまうだろう。異常者が、精神的な弱さを持っていたとしても、危険なことには変わりない。それが彼女の弱点ではあるが、彼女の精神性の構築に一役買っているのも事実であろう。
「お互い、相手が信じられないみたいね……でも殺し合う前に、あなたのお話を聞かせてくれないかしら」
「それは嬉しいことですね、そう言われますと、話したくなってきましたよ…………」
「…………では少し自己紹介をさせていただきますね。私、贄沢オルナと申します。この前自分で考えた名前です。両親は二人とも、私に関する記憶を失っているため家族はいません。記憶だけ私が消しました。あ、戸籍は持ってますよ。仕事までしております。社会的な立場としては、只のサラリーマンで、会社から給料を貰って生きる生活をしております。ですが私は、昔から、普通の人間ではありませんでした。いわゆる超能力が使えたのですよ。それも、よく聞く透視能力だとか、サイコキネシスだとかは、完全に凌駕しているものでした。あなたはご存知かもしれませんが、私は思ったものを何でも作り出せるんです。生物は苦手ですがね。少し複雑過ぎますし、動く仕組みがいまいち納得出来ないのですよ。で、その力のおかげもありまして、何も困ったことはありませんでした。あ、聞いてくれてます?」
「ええ、聞いているわ……」
「ですが一つ、困ったことがあったのですよ。私は、恋人が欲しかった
し、愛が欲しかった。ありきたりな感情ですね、人間ですから。ですが、恋人はいつも普通の人間だった。だって、自分で作れないなら、外から得るしかないでしょう? それがとても物足りなく感じたんです。女性なんて、知れば知るほど、誰もが、あまりにつまらない思考で生きていて、本当に退屈なんです。私はそれが許せなかったし、悲しかった、失望した。何故、あんなにつまらない思考回路で生きていられるのか理解出来なかったし、退屈が私にまで感染するようでした。本当に気が狂いそうだった……」
「なるほどね……」
「でも私には、欲求だってあったし、何より、愛したい気持ちがあった。あなたにもあるでしょう? その感情と欲求が、こんな形で発芽して、今あなたがこの場に存在するようなことに繋がったのでしょう。この事態を否定も肯定も出来ませんし、あなたが悪いとも思わない。でも皆さん、誰も死んでませんし、いずれ記憶を消して、家に帰すつもりですよ。勿論あなたも」
「それはありがたいわね……」
「さて、私のお話はこれくらいにして、あなたのお話も聞きたいです。別に拘束台に繋いで、悲鳴を聞きながらでも構いませんけど」
「では簡単に……私は、巳様虹乃花。あなたの敵ね……今日は仕事で来たけど、あなたには少し反省が必要みたいだから、個人的感情を使って、私から軽く教えてあげるわ……」
「美しいお名前ですね、あまりお話が聞けず残念ですが、それではひとつよろしくお願いします」
贄沢がそう言うと、虹乃花の手足に枷が繋がれていた。両手、両足に銀色の鎖が繋がれており、自由を奪える長さになっていた。鎖は太く、常人では切れないだろう。また、首には黒いロープがかけられており、いつの間にか存在していた絞首台と結ばれている。虹乃花がそれを認識する頃には、彼女の足元の床が消えていた。贄沢は全てを奪うつもりだった、不安は残酷さを正当化する。彼は、心の底では目の前の女性の存在が不安で堪らなかったのだろう。床の底は暗く、深さがわからない。この場合、深さはそんなに問題ではないのだが。
「速いわね」
自由落下しながら、虹乃花はそう呟く余裕を見せた。確かに速かった、自分自身を心の底から信頼していなければ、発現出来ない速度。尤も、先ほどの会話の間に、何か準備をしたのかもしれないが。だが人形は、この時点で虹乃花の勝ちだと確信する。攻撃が生ぬるいと感じたからだ。その程度では、巳様虹乃花は倒せないし、失敗した上に、明確な殺意まで彼女へ向けてしまった。おそらく、贄沢が全力で虹乃花を倒すためにエネルギーを注げば、虹乃花に勝てるかもしれない。けれどもそれは無理な相談で、彼にそんな精神性があれば、こんな能力は発現しなかったはずだ。自由を奪われ、足場も失い、巳様虹乃花は落下する。傍から見れば絶望的状況だが、彼女は何も表情を作らなない。ただ静かに、自身の置かれた状況を確かめる。そして落下途中、彼女の右手が光ったかと思うと、まるでワープしたみたいに、彼女は隣の床の上へ移動していた。何故か枷も全て外れている。いや、枷だけはまだ絞首台の下方に存在し、落下し続けている。彼女が枷から外れたのだ。そして、いつの間にか取り出したリボルバーを左手で構え、そのまま発砲した。動作は素早く、おそらく0.2秒にも満たない時間だったであろう。更に、横に身を躱し、反撃に備えた。それなりに洗練された動きだ。自己流ではなく、どこかで訓練された動きだな、と人形は感じた。銃弾は直線を描き、贄沢の胸へ中央から見てやや右に命中し、スーツに穴が空く。穴の付近があっという間に血で滲む。贄沢が少し驚いた顔をして、手で胸を抑える。虹乃花はその隙を見逃さず、続けて頭へ向かって発砲すると、額に穴が空いた。虹乃花はそれでも全く油断せず、贄沢から離れ、ソファーの後ろに隠れて、贄沢を見据えていた。黒いリボルバーを持ち、静かに構える。弾はあと4発。
「さて、どうなるかしらね」
そう言ったタイミングで、横の壁がまるで倒れるように動き、虹乃花へ覆い被さった。少し反応が遅れたが、虹乃花は正面に飛び出し、なんとかそれを回避する。しかし、うつ伏せの体勢になってしまった。リボルバーはなんとかまだ手に持っていた。贄沢が近付いて、虹乃花の右手をリボルバーごと踏み付け、虹乃花を見下ろす。踏む力は常識では考えられない程強く、聞き慣れない音がして、彼女の右手が潰れる音がした。虹乃花は静かにその痛みを受け止める。しかし、贄沢の方が重症で、スーツは血塗れで、頭の右半分は脳まで見えている。死んではいないが、怪我は治っていない。常人であれば明らかに即死を免れない重症であり、贄沢の異常性を示していた。
「凄いですね、なんだか負けそうな気がしてきましたよ。でももう右手も潰しました。そして、これならどうでしょう」
贄沢が呟く。気が付くと虹乃花は、倒れた体勢のまま大きな水槽の中に居た。水槽の中には、半透明な水色の液体が満たされている。虹乃花が少し怒ったような表情を見せる。手足は既に鎖に繋がれており、このままでは溺死は免れないであろう。女性一人を繋ぐには、明らかに大袈裟な黒い鎖。鎖の太さは、そのまま持ち主の不安を表しているようだった。水槽も、まるで違う世界の出来事みたいに、この行為を遠くで起きている出来事のように見せるための演出に感じられる。虹乃花は拘束されたままで、やっと身体を動かして贄沢の方へ視線を送る。何かを確認するみたいに。その視線を、贄沢が真っ直ぐ受け止める。この時の虹乃花の視線は明らかに不自然なのだが、自分が安全だと思えば、人は不安にならない。贄沢は人間のありきたりな反応を見せた。そして、少し嬉しそうな顔をして、真紅のソファーへ腰掛ける。あれだけの怪我がもう治っていた。
「あなたに興味があります。脳細胞がそこそこ死んだら、出してあげますよ。聞こえてないでしょうけどね。ちなみにその水は魂を溶かします。あなたの人間として重要な部分は、その大半が溶けてしまうという訳です。仲良くしましょう」
贄沢がもがく虹乃花を観察する、表情が見たかったからだ。美しい女性には死が似合うと、彼は考えていた。しかし、幸せな時間は長くは続かず、数秒後、虹乃花の姿が消えた。贄沢は瞬きをしていなかったし、虹乃花がたとえ自分の座標を操れたとしても、抜けられない工夫をして、この水槽を創造していた。それでも彼女は見えなくなった。この時贄沢は、虹乃花が透明な色になっていることを本気で疑った。しかし、次の瞬間には、銃声が響き、贄沢が倒れていた。銃弾を受けた衝撃で、ソファーから投げ出された身体が、無造作に床へ横たわる。贄沢の背後には、水色の液体に濡れた虹乃花が、息を切らしながらライフルを構えていた。水色の液体のせいだろうか、黒い瞳が少し灰色がかった色になっていた。服はかなり溶けてしまっていて、なんとか肌を覆っている状態だが、身体は溶けていなかった。
「拘束なんてしようとしなければ、あなたの勝ちも見えたかもね。自由を奪うつもりなのに、視覚を奪わないのは何かの拘り? 尤も、その展開があるなら、私も違った手を使ったけど…………あと2秒で立てなければ、あなたの負けかな……」
虹乃花は素早く贄沢へ駆け寄ると、柄も刃も白いナイフを取り出し、彼の背中へ突き立てる。全く迷いを感じない動きで、ナイフは何の抵抗も無く、贄沢の背中へ沈んでいく。ナイフは少し輝いているように見える、何かの機構が備わっているのだろうか。
「人形くん、終わったわ。出てきてください」
「はい」
人形の声がすると、彼はもう虹乃花の隣に居た。横たわる贄沢を注意深く観察する。彼の時間は止まっているようで、全ての生体反応は失われていた。
「まだ生きているわ、でもナイフさえ刺さっていればもう動けない。このナイフは外傷を目的とした道具ではないの。対象に、指定した何かしらの効果を与えられる。今、彼の時間は止まっています」
「そうなんですね、お疲れ様でした。右手は大丈夫ですか?」
「右手は平気、すぐ治るわ。左手だったら、多分病院送りだったけど。しかし、部屋が消えないわね。まあ、私達に認識されているからでしょうけど。最悪適当にチューニングして、出口を作りましょう。さっきの増幅器で仕組みは大体理解したから、何とかなるわ」
「さあ、次の仕事をしましょうか。人形くん、お願いがあるのだけど。彼の手首だけ、一時的に切り取れないかしら?」
虹乃花が贄沢を指差しながら言った。
「ええ、出来ますよ。しかし、流石の発想ですね」
人形は贄沢の右手首を切断し、虹乃花へ手渡した。まるで、空間だけ切り取ったように、血も流れない。おそらく、時間さえ動けば血液も循環するだろう。虹乃花は、贄沢の手の上から、取っ手を握り、部屋の隅の扉を開ける。すると、生きた女性が部屋の中に居た。そして、何回もそれを繰り返した。全員を助けると、結局11人も集まってしまった。
「目的は達成したけど、馬鹿馬鹿しい気分ね」
虹乃花はそう締めくくると、贄沢の事は放置して、秘密の部屋の扉を閉めた。誰にも認識されない部屋の中、時間が止まった創造主だけがただ存在していた。

エピローグ

あれから二日経ち、まだ後処理に追われている中、虹乃花は自分の事務所で仕事を進めていた。
「うーん、結局、770万の赤字だったわ。ナイフを置いてきたのが痛過ぎたわね」
冷たい画面を、冷めた瞳で覗き込む。瞳の黒さは元に戻っており、彼女の感情を閉じ込める。デスクの周りは少し散らかっていて、彼女の忙しさを示しているようだ。応接用のソファーには、隣人愛が腰掛けていて、その前に2台のノートPCが置かれていた。
「あれ幾らするの? なかなか綺麗だと思っていたけど、普通の道具では無いわよね?」
「あれだけで700万よ……後は諸々、地味に服が溶けたのも痛かった。敵地にお気に入り着てくのもう辞めます……」
「お金については、次の仕事で何か私もお手伝いしてお返ししたいなあ。でも、ナイフは回収した方が良いんじゃない? 彼の処置は、私も協力出来るけど、殺さないんだっけ?」
「殺しません、私は誰も。あまりからかわないで」
「失礼しました」
虹乃花が窓辺へ歩き、静かに窓を開ける。まだ午前中だろう、晴れた空が清々しい。彼女の知らない人ばかりが道を行き交う、そんな当たり前の光景に癒しを求めていた。
「……綺麗ね」
「ええ、ほんとに」
それだけの会話だった。あまり解決出来た気もしない、自分が全て正しいとも思えない。それでも、選択し、行動し、結果を得る。その繰り返しだけが彼女に許されていた。死んでしまえば終わる世界の、その外側まで抱き締めて、彼女は愛を信じていた。笑えない日だって、笑えないまま受け止めた。人はいずれ死ぬし、やっと繋いだ未来だって、永遠ではないだろう。自分のこの営為が報われて、少しだけ未来が明るくなったとする。それでもまた次の障害が現れて、いずれその繰り返しに疲れてしまう時が来る。一度でも負ければそこで終わりであり、もう次は無いのだ。そして、相手は永遠だ。しかし、こんな事柄は理解した上で、彼女はこの生き方を選択する。有限の未来であっても、身の丈を超えた宝物だと考えているし、彼女が知る終わり方では納得出来なかったからだ。それに、彼女にとって初めての昨日は、それでも幸福を感じられるものであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です