天使が遺したアナグラム #3 Ddat Party(ディーダット・パーティー)

プロローグ

わたしは知っていた。この世界の結末と我々に許された選択の限界を。世界は常に閉じているもので、全ては誰かの思い込みに過ぎない。それでもどれかを選ぶしかなく、それでいて選択には常にリスクが伴う。そんな当たり前と向き合って、たとえ全てが誤りだったとしても、繰り返し判断を重ねてきた。この世界はどうしようもないと考えつつも、その中で可能性を探るしかない。九条リリスは赤い液体の入った試験管を眺めながらそう考えていた。

「全然上手くいかない……うーん…………もうこんな時間かあ……どうりで眠いと思った。コーヒーでもいただこうかしら」

窓は無く、床も壁も白い無機質な部屋の中、九条リリスは立ったまま広いテーブルに向かいながら呟く。テーブルの上には、色とりどりの液体の入った試験管、金属の板、小さな宝石、専門書やメモ書きが散乱している。少し離れて、ノートPCやプリンタ、バーナー等も用意されていた。九条リリスは縫い目の殆ど無い、変わった白衣を身に着けていた。身長は女性としては高く、170cmはあるだろう。年齢は外見から察すると二十代に見えるが、佇まいは底の知れなさを伺わせる。自身の感情や能力を無理に閉じ込めることはせず、表面に出るがままに任せた自信に満ちた態度。髪は艶のある金髪で、透明感のある白い肌と青い瞳によく似合っていた。少女の理想を具現化したような大きな瞳は、ここではないどこか遠くを見ているかのようだった。

「……リリス様、失礼致します…… 」

声と共に、白磁のコーヒーカップがテーブルの上に置かれる。九条リリスの趣味だろうか、十代半ばに見える少女がそこに居た。服装は一般的な白衣であったが、下には何故か白いスカートを履いていた。身長は150cm程で、褐色の肌に金色の瞳が印象に残る。殆ど白に近いグレーの長髪は丁寧に巻かれており、彼女の拘りが現れていた。腰に巻いたホルスターには白い拳銃が覗く。

「ありがとう、水面(みなも)」

水面と呼ばれた少女、春風水面(はるかぜ みなも)は、軽く会釈し、部屋の隅に置かれた椅子へ腰掛ける。表情の作り方から、九条リリスを慕っていることが見て取れた。

「さあて、始めますかねえ。一つくらいは成功させたいわね。水面、部屋を出た方が良いわ。少し危なくなるかも」

「……危険だからこそお付き合いさせていただきます……一応ボディーガードですし……」

「あら、そう……ありがとう。あなたならきっと平気よね」

九条リリスはそう言うと、テーブルを片付け始めた。そして、幾つかの試験管と空のビーカー、小さなナイフと包帯、それから、業務用のフードプロセッサーに似た機械と小さな木製の人形を用意した。人形は人間が考えた神のような造形で、静かに微笑みをたたえていた。複数用意されており、他のものは離れたテーブルに丁寧に並べられている。九条リリスは、機械の蓋を開けると小さなナイフを左手で持ち、右手の手首へ当てた。九条リリスが少し眼を細めると、刃先に血が滲み静かに滴る。そして傷付いた右手首を機械の上に置き、中へ血を落とす。中の刃を濡らすことが目的のようで、二枚の刃を丁寧に赤く染めていく。作業が完了すると、細い手首に包帯を巻いた。

次に、神を模した人形を慣れた手つきで包帯で包むと、静かに機械の底へ置いた。そして、複数の試験管の中の液体を上から注ぐ。すると、人形を包んだ包帯が少し動いたように見えた。九条リリスはそれを確認すると機械の蓋を閉じた。

「水は良いものがあったけど、結局装置の構造は掴めなかった……ミキサーで代用してはみたけど、どうかしらねえ。この電気仕掛けの馬鹿馬鹿しさで、怒ってくれればいいのだけれど」

九条リリスが機械のスイッチを押す。二枚の刃が回転し、液体と人形の区別を無くそうとする。青い液体が、みるみる内に赤く染まる。九条リリスは少し面白がっているような表情で、それを見つめていた。十数秒後、再びスイッチを押下し機械を止める。

「プラム! 余程恨んでいたのね」

九条リリスは、暗い紫色に変化した液体を無邪気な笑顔で眺める。しばらくしたら満足したのか、静かに機械の蓋を開けようとする。すると、突然部屋が真っ暗になった。いや、部屋は明るいままであったが、九条リリスは何者かに視界を奪われていた。春風水面が慌てて立ち上がるが、どうしていいのかわからないようだ。癖なのか拳銃へ左手を伸ばすが、抜くことも出来ず動けないままだった。

「うわあっ」

九条リリスは、反射的に機械へ手をかざす。すると、機械やそれを支えるテーブルに網目上に線が入り、形を失い崩れ落ちる。テーブルは台無しになり随分散らかってしまった。やっと視界を取り戻した九条リリスは、残骸の中から何故か形を保っている人形を拾い上げる。人形は先程までのアルカイックスマイルを捨て、不吉な感情の混じる不気味な笑顔を浮かべていた。春風水面は心配そうにそれを眺める。しかし、九条リリスが能力を使用することを懸念し、迂闊には近付けない。おそらく、巻き添えになったら自分は即死するだろうと考えていた。一瞬イメージが頭に浮かびぞっとする。割れて死ぬだなんて耐えられない。

「あれ、笑ってるじゃないの。良かったあ」

持ち上げた人形の表情を確認すると。九条リリスが笑顔になった。大袈裟に手を上げ、喜びを表現する。その姿に春風水面もつられて微笑む。彼女には、結局何がどうなったのかは全く理解出来なかったが、リリス様が喜んでいて良かったなあ、と何となく考えていた。他のテーブルの上に置かれた人形達は、先程とは配置が変わってはいたが、そのどれもが楽しそうに笑っていた。

1 鏡像認識

幸神駅の南口、駅から徒歩5分程のビルの一室。その小さな空間で、彼女は何かを待っていた。巳様虹乃花(みさま このか)は自身の事務所で、ソファーへ横になりながら本を読む。表紙には”名犬ぶっちの冒険”という文字と、筆で描かれたようなデフォルメされた犬が見える。そんなおそらく子ども向けであろう絵本を、虹乃花は無表情で眺める。最近は事務所に寝泊まりしているのだろうか、時刻はもう午後一時を過ぎているが服装は水色の寝間着のままで、長い髪には少し癖が付いている。ソファーの前のテーブルにはグラスやノートPC、食べかけのチョコレート菓子等が置かれていた。

九条リリスが予言した特異点まであと三日、対応は後手に回ってしまったけれどやれるだけのことはやった。結局、特異点の詳細な座標すら不明で、事前に小規模な生命の消失が観測されることがわかっていた。

それでも、巳様虹乃花は焦るつもりは無かった。不思議と協力者にも恵まれたし、それなりに準備も出来た。確かにまだ動ける余地はあるが、自身が当日に緊張や疲労で判断を誤ることを嫌った。それに、あまり大規模に人や金銭を動かして目立つことも避けたかった。無闇に動いて安心したがるよりも、必要な準備を確実に行いたいと考える、彼女らしい選択であった。だからこうして、今は絵本でも読みながら過ごしていた。幼い頃、両親に読んで貰ったことを思い出す。楽しいことばかりの未来でもなかったのに、脳裏にはそんな光景ばかりが浮かぶ。彼女の価値観を形成する基準となった世界。そして、もう触れられない世界。どこにも痛みは感じていないはずだが、自然と涙が溢れる。彼女にもかつては愛する人が居て、背景があり、そして何より、幸せになりたかったからだ。虹乃花は開いたままの絵本で顔を隠す。空想上の名犬は、困難へ立ち向かう姿を紙の上から示し続けていた。

「………………体調は万全。あと三日もあれば充分ね……」

しばらくして虹乃花が身体を起こすと、涙の余韻すら残っておらず、瞳は強い意志を示していた。この世界を構成する、あらゆる矛盾や対立構造、複雑さや曖昧さまでもを飲み込めるような瞳。人としての幸せを信じていても、人であることを嫌うかのような弱さも、隠そうともせずそのまま受け入れる。たとえこの世界で最後の一人になったとしても、彼女は諦めないだろう。現在のリソースを認識し、ただ目的へ向かって判断を繰り返す。悲観もしないが楽観視もしない。時間が経てば何もかもが失われるこの世界で、そんな当たり前に逆らう営み。自分が自分であるがために、彼女は生きようとしていた。

2 観測事実

2019年5月5日 11時11分、それは観測された。都内近郊、涙目町に構えるアルパイン実験動物研究所の敷地内において、生命の消失が発生した。それは、実験棟のあるフロアで数名の研究員が衣服のみを残し姿を消したことを、警備員が発見し確認された。研究所は製薬会社最大手、カイザーの完全子会社であり、警備は厳重を極めており外部からの侵入は考えにくい。現場には他に不審な痕跡も無く、現段階では原因は不明。発生から三十分経過時点では、元々の隠蔽体質も災いし外部への連絡は一旦保留とされていた。しかし、巳様虹乃花や九条リリスはそれぞれのルートでその情報を掴んでいた。おそらくは研究所内部での情報連携時、特定の幹部への第一報に外部メールを使用したことが起因であった。彼女らの他にも、国家の情報機関もこの事実を掴んでおり、会社自体のセキュリティ意識に問題があったと言える。また、発見から一時間経過後も研究所は業務を中止することはせず、事象の整理後、問題があれば警察へ届け出る方針を選んだ。

3 初動

巳様虹乃花は、隣人愛(りんじんあい)と共にアルパイン実験動物研究所の内部へ侵入していた。巳様虹乃花は紺色の修道服に身を包んでおり、この空間には異質な存在に見える。手袋の左手は白い一般的なものだったが、右手だけ銀色の金属製にも見えるものを身に着けていた。長い髪ははっきりとした黒で、更に黒い瞳は、まるでそこだけ空間が切り取られたかと錯覚する程だった。背丈は155cm程度で、どちらかと言えば小柄ではあるが、見る者にどんなことでも可能だと思わせるような独特の雰囲気を持つ。それは静かな意志を秘めた瞳と相まって、不自然な程の美しさを振りまいていた。

一方、隣人愛は白衣を着ており、先ほど観測し能力で外見のみ再現したセキュリティカードを首から下げていた。しかし、茶色い髪と明るそうな顔立ちはこの空間では浮きそうだ。これ以上見た目を変化させないのは何か別の目的があるようにも見えた。背は虹乃花より少し低く見えるが、靴のせいかも知れない。

今回、特異点の観測にあたり、虹乃花は二つのチームで対応することとしていた。一つは直接侵入し観測を行う、虹乃花と隣人愛のチーム。もう一つは、施設の外部から観測を行う、人形(ひとがた)、巡音奏(めぐるね かなで)のチームだ。特異点は、観測する距離によって事象が変わる場合があることを巳様虹乃花は記憶から知っていた。直接の観測は危険も伴うが収穫も期待出来たため、虹乃花は自身が必ず行うと決めていた。自身が観測さえすれば、きっと先が見えると考えていた。それに、彼女は生き残ることそのものが得意であり、自身が適任だと認識していた。本来は一人で行うつもりだったのだが、隣人愛の強い意向でこうして二人で来ることとなった。外部からの観測は、一言で言えば眼を増やすことが目的だった。役割としては二つで、特異点の観測と、危険を検知した際の虹乃花への連携を想定していた。人形はこういった仕事は得意で、既に配置に就いていた。巡音奏は、至って平凡な大学生ではあるが、役に立ちたいという彼女の勝手な思いからここに居た。しかし、彼女自身はあまりよく理解してはいないが、認識から派生した能力の干渉を受けないという唯一無二の能力を持っているため、他の人間は無駄ではないと考えていた。しかし、深くは巻き込みたくないと巳様虹乃花は考えていた。

4 いずれ散ることを愛していた

「あれ、不味かったかしら」

「ああ、階が違ったみたい」

事象発生から約二時間半後、九条リリスは、認証失敗を示すブザーの音を聞きながらそう呟いた。二色空木月下(にしきうつぎ げっか)と春風水面(はるかぜ みなも)も一緒で、顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。既に侵入しており、研究所の管理棟でセキュリティに引っかかってしまったようだ。九条リリスは深緑色のワンピースに同色のハットを被っており、ネックレスや指輪を身に着けていた。そのどれもに、何かしら仕込んでいるのだろう。特異点への思い入れを感じさせる。二色空木月下は、相変わらず真っ黒な服装で、銀色の髪と赤い瞳を際立たせていた。年齢は春風水面と同様、まだ10代だろう。背は低く、150cm未満に見えた。春風水面は白衣のままで白いリュックを背負っており、いかにも目立つ三人組だった。隠れるつもりは全く無いのだろう。九条リリスは、認証機に隣接する電話機を使用し事務棟へ連絡する。侵入者とは思えない、恐るべき大胆さだ。いや、失敗しても構わないと思っているのだろうか。

「すみません。今管理棟の3Fなのですがあ、部屋を間違えてしまい弾かれてしまって……」

「ああ、そうですか。少々お待ち下さい………………一旦リセットしましたので、もう大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

それだけで会話は終了した。九条リリスが不審そうな顔をする。

「リリス様。良かったじゃないですか、揉めないで済んで」

二色空木月下が九条リリスを見る。九条リリスは、警備員の様子と環境音から、彼らが別件の対応に追われていることを疑っていた。しかし、特に予定変更は無い。

「大丈夫! 行くわよ」

九条リリスが歩き出す。目的地は7Fの監視室だ。あっさりと目的地へ辿り着き、付近の警備員を気絶させ、今度はセキュリティカードを奪い中へ入る。気絶した警備員は二色空木月下が片手で引き摺り、ついでに持って行く。監視室内には、研究所内のあらゆるカメラの映像がモニタされていた。中には警備員が六名居たが、春風水面が素早く全員に次々とピストルを向け、引き金を引く。それだけでもう静かで安全な空間になった。

「さすが水面、速いわねえ」

「……いえいえ……ところでリリス様、この麻酔弾……初速と即効性が優秀過ぎます……殺してしまうかも知れません……一般人の殺害はやや気が引けます……」

「それなら大丈夫よ、優しいわね。わたしが作ったもので、とにかく軽いから見た目ほど殺傷力は無いし、後遺症も殆ど無いものよ」

リリス様が作ったからこそ危ないのでは……と春風水面は思ったが発言は控えた。静かになった警備員をデスクの影へ並べると、三人は室内を調べ始める。少しすると、二色空木月下がモニタ内に何かを発見する。

「リリス様、六名がこちらへ向かっています……警備員ではなく、特殊部隊の可能性もありそうな連中です。対応が早過ぎて怪しいですね。既に侵入していた……と考えるべきか」

「あら、それは困ったわねえ。ありがとう月下。見せてちょうだい…………ああ……まず間違いなくIDIね……不味いわね、応戦しなければこっちにも被害が出るかも」

「……IDIってあのIDIですか? 我々の相手にはなりませんが……そこそこ鍛えているだろうし……政府が絡むと厄介……」

「そうねえ……うーん……彼らにとっては残念だけど、ご退場願いましょう。邪魔はされたくないわ」

九条リリスがそう言うと、二色空木月下と春風水面は真剣な表情になった。彼女達はどんな格下の相手であれ、敗北する可能性が僅かではあれど存在し、それによって失う物の大きさをよく理解していたからだ。彼らはあと二分もすればここへ踏み込んで来るだろう。一方、九条リリスは、この与えられた状況が、特異点への干渉に役立つのではないかと期待していた。虐殺が特異点の発生に繋がった例があることを、彼女は知っていたからだ。

5 鬼ごっこ

「リリスが管理棟でやらかしたようね……。まさか、人間を捧げるつもりじゃあ……」

巳様虹乃花が、人形から得た情報と、自身の網膜へ写し出された映像からそう解釈する。事務棟の5F、上へも下へも逃げられる非常階段脇の部屋で、虹乃花と隣人愛は待機していた。その部屋は殆ど使われた形跡の無い会議室で、余った椅子等の備品が置かれていた。

「どうする? ここで待つ? 何か仕掛ける? 警察を呼んでしまって足止めするとか、爆発物でも投げ込むとか」

「……待つわ。特異点発生後はどうせ無秩序な状態になるから、今リソースを無駄遣いしたくはない。リリスもそれを理解していて、今なら警官でもあっさり殺しかねない。いや、確実に殺すでしょうね」

「そう……でも、私の仲間は念の為付近まで呼ばせて貰うわね。外部からの干渉へ対してならば、時間稼ぎくらいはさせられるわ。人形でも流石に全方位は厳しいでしょうし、この敷地の広さを考えると」

「ありがとう。でも、特異点は必ず発生するから、それをもし阻止してしまうような動きをすると結果が捻じ曲がる場合があるから気を付けて。何度も言ったけど、発生そのものは受け入れるしかない。リリスはそれ自体が狙いかも知れないけど」

虹乃花は、窓から少し離れた場所へ立ち、外を眺めている。何かを感じているのだろうか、少し眼を細め、悩んでいるような表情を作る。軽く驚いた振りはしてみたものの、九条リリスの行動はいたって想定の範囲内であり、実際には些かの動揺も覚えていない。まずは観測し、生きて帰ることを優先事項として考えていた。ふと、虹乃花が異変に気付いた。まだ時刻は13時57分33秒頃であるはずなのだが、窓の外は暗く、星が見えている。虹乃花の瞳が一瞬光ったかと思うと、部屋内の異なる座標に移動していた。しかし、窓の外はまだ暗いままだった。隣人愛もそれに気付き驚いた表情を作る。

「虹乃花、私達は今誰かの攻撃を受けていると思う?」

「わからないけど……おそらく人の仕業ではない……解像度がいくらなんでも高すぎるし、記憶の流用でもない映像。それに、大抵のやり方なら今日の私には効かない……。多分、実際に今は夜なのだわ」

「だとしたら、眠らされていた? でもそれだと、時計の時間と辻褄が合わない……生命だけがターゲットの可能性? うーん……」

「…………特異点は始まった、と解釈すべきね。私もこの形では一度も見たことすら無いけど、おそらくこれは時間の非同期。かなり魔術よりかつとんでもなく高等、人間にこれが出来るなら苦労しないわね。特異点が自身を守るかのように発現させたのだと思う。移動するわよ、愛。時間の最も進んだ場所へ。しばらくすればここも危険な場所になる」

「でも聞いてた話と違くないかしら? 『無の3日間』とは何だったの?」

「身も蓋も無いけど、『変化した』、と言うことね。私か、リリスか、それ以外の誰かの影響で。ここから先、収束までは信じられるものは次々と減っていくはず。今の私は本物だけど、もしも偽物と接触してしまったり、あなたの前で死んだりしたら構わず逃げて。生き残れば、また機会はあるから」

「よくわからないけど…………ここはあなたに合わせた方が良さそうね」

巳様虹乃花は扉の前に経つ。拳を握りしめ、瞳は冷え切っていた。本人の冷静な発言とは裏腹に、どんな説得も不可能だと思わせる、静かに決意を秘めた顔をしていた。きっとここから先は止まらないのだろうな、と隣人愛は感じていた。

6 お外が

「ああ、悲しいわねえ。人は常に運命に裁かれ続ける。あなた達のこと、明日までは覚えておくわ」

虹乃花と隣人愛が会議室から移動する十分前。九条リリスは、死体ばかりが転がる部屋で少しだけ嬉しそうにそう呟いた。春風水面は、自身が的にしたかつて人間だった物体を部屋の隅へ運び、丁寧に並べるという仕事に精を出していた。理由はわからないが、おそらくは彼女の思想によるものだろう。二色空木月下は真剣な表情でモニタを眺めている。彼女はこの狂気から、どうしても九条リリスを生き残らせたいと考えていた。リリスが悲しむ姿、ましてや全てを失った姿など、決して見たくはなかったのだ。自分と同じ人間を殺してやっと、少女は今を理解しつつあった。

「リリス様! 次は二人だけこちらへ向かっています。強そうです、先程の方々とはランクが異なります。一人は人間かどうかすら疑問です。それらしく見せてはいますが、どこに力を入れて立っているのかすら不明……です。印象としては人形さんに近い……かも…………です」

二色空木月下が報告する。既に覚悟を決めているようで、そこまで動揺は見られない。

「ありがとう。月下。そうねえ、あなた達二人、回り込んで貰えないかしら? そうね……彼らがこの部屋に入って、二分後に戻って来て欲しい」

「承知しました。リリス様」

二色空木月下と春風水面が部屋を出る。今は議論している時間は無く、信じた者の判断に殉ずる。そんな態度が伺い知れる。移動しながら春風水面はふと思う。我々は今、守られたのではないかと。

二人が隠れた少し後、管理棟7Fのエレベーターの扉が開く。中から、二人の男性が現れ、扉は閉じた。二人共スーツ姿ではあったが、その姿は対称的だった。一人は身長170cm程で、髪はグレーで短髪、年齢は三十代後半から四十代前半くらいの男性で、グレーのスーツを着た姿は洗練されていた。落ち着いた雰囲気で、厳しそうな顔立ちも、彼の魅力の一つにすら見えた。

「近いな……」

「ええ」

返事を返す男性は、背が高く、190cm近くはあるように見えた。黒い髪は肩まで届く程長く、センター分けが白い肌と神秘的な顔立ちにマッチしていた。それでいて、細身ではあるが弱々しさは全く感じさせない。彼らは廊下を静かに歩き、監視室の前まで辿り着く。ぶら下げたセキュリティカードを認証機へかざすと、ブザーが鳴り響く。扉には何も変化は無い。

「ここはセキュリティレベルが高いようだな」

「問題ありませんよ、支部長」

「ここではネイトと呼べと言っただろう」

「わかりました、ネイトさん」

背の高い男性が閉まったままの扉を右手で押すと、金属製の扉がゆっくりと向こう側へ曲がっていく。するとそのまま内側へ押し切り、扉は役割を果たさなくなった。部屋の中には、九条リリスが椅子へ座り、扉へ背を向けモニタの方を向いている。二人の登場には気付いているはずなのだが、素知らぬふりだ。二人は部屋の中へ入ると、支部長と呼ばれた男性が声をかけた。

「リリスさん。気付いているのでしょう? 二分後にお仲間もいらっしゃるとのことで」

九条リリスがその言葉を受け、ゆっくりと椅子から立ち上がる。その動きはとても優雅で、二人の訪問を喜んでいるようにさえ見えた。

「あらあ、聞かれていたのですか。IDIにもそんなご趣味があるのですねえ。こんな一市民に何の御用でしょうか」

「ご謙遜を。部下の無能さを差し引いても、あなたが人間だとまだ信じられない。何者ですか?」

「思ったより冷静なのですねえ。あなたの部下に関してはごめんなさい……ところで、どちら様でしょうか?」

「お察しの通り、我々はIDIです。申し訳ないですが、この場を見過ごす訳には行きません」

「あら、それは残念。お名前もダメですか?」

「残念です…………黒羽(くれは)……」

長官と呼ばれた男性、ナサニエル・ノートンが、背の高い男性、六花亭黒羽(ろっかてい くれは)へ合図を出す。

「わかりました。正直かなり気が引けますがね。こんなに美しい人を壊すのは」

そう言いつつも六花亭黒羽が行動を開始する。そして九条リリスが認識出来ない速度で、彼は眼の前に移動した。九条リリスは面食らったが、それでもかろうじて反応し地面を蹴る。しかし、既に鳩尾に六花亭黒羽の右腕がめり込んでいた。尋常ではない速さだった。それだけで九条リリスが意識を失う。六花亭黒羽の左手で抑えられていたため、 身体が吹き飛びはしなかった。口からは血液の雫が垂れており、内臓への損傷を示す。六花亭黒羽は全身から力が抜け倒れる九条リリスを丁寧に抱え、仰向けに寝かせる。そして懐から拳銃を取り出した。黒い小さな口径のもので、彼にとっては玩具だろう。それを右手で構えると、九条リリスの胸へ向け引き金を引く。乾いた音と共に、九条リリスの身体が一瞬痙攣する。そしてすぐに、深緑のワンピースの胸元が赤く染まった。大きな青い瞳は相変わらず眠そうで、どこか遠くを見つめているようだった。

「完了しました。あと九十秒程ありますね。むっ」

六花亭黒羽が突然動き、自身が壊した扉の前に立つナサニエル・ノートンへ回し蹴りを放った。彼はあっけなく吹っ飛び、扉の外へ立つ二人の少女へ突っ込む。二色空木月下はあっさりとしゃがんで躱すが、春風水面は巻き添えになり後ろの壁へ叩きつけられる。吹き飛ばされた先でナサニエル ・ノートンは気絶しているように見えたが、春風水面は大した傷は負っていないようで、即座に立ち上がる。二人は銃声を察知し駆けつけたのだろう。春風水面が立ち上がる間に、二色空木月下は部屋の中へ入った。怒りに満ちた表情をしており、右手にはナイフを握りしめていた。

「動くな!」

部屋へ踏み込むなり二色空木月下が叫ぶ。しかし六花亭黒羽はその言葉を無視し、二色空木月下へ近付き右手のナイフを掴むと、少女の胸へ押し当てた。あまりの速さに、二色空木月下はその間反応すら出来なかった。一瞬遅れてやっと反応した彼女は、事態の深刻さを理解する。自分はあと数秒で死ぬのだ、と。二色空木月下は瞳を潤ませ、反撃ではなく自身の運命を受け入れるために時間を使った。ああ、守れなくてごめんなさい。リリス様。強くなりたかった。手に入れてみたかった。あなたが考える世界で、幸せになってみたかった。不安ばかりの世界、何も持たない私にとって、あなたは憧れでした。真実の無い世界で、くっきりと輪郭を持ち、常に笑顔だったあなた。特異点への準備だって、大してお役に立てませんでしたが、あなたと一緒だったからとても楽しかった。そして二色空木月下が眼を閉じると、意識は薄れ、無に帰す……はずだった。しかし、二色空木月下には再び瞳を開くことが許された。

二色空木月下が辺りを見渡すと、ナイフは右手の中に無く、胸にも傷は無かった。春風水面がこちらを心配そうに、最早泣き出しそうな顔で眺めており、先程までの感覚は事実であることを知らせてくれた。

六花亭黒羽は、少女の胸元にナイフを刺した感覚を反芻していた。だが、しかし現実はどうだ。何故私の胸に刺し傷があり、あの少女は無事なのだろう。明らかに致命傷であるにも関わらず、六花亭黒羽は自分の足で立っていた。しかし、ここからの判断ミスは命取りであり、重々それを理解していたため、何も選べず彼は数瞬立ち尽くしてしまう。

「さっきは痛かったですわあ。まあそれは許してあげますけれど、それを差し引いても、無事に帰す訳にはいかないわねえ」

気付けば九条リリスが背後に立っていた。衣服には血が滲み、胸元は銃弾で多少破れてはいるが、本人は至って元気そうだ。この言葉と共に、六花亭黒羽の全身に網目状の線が入る。あまりの激痛に六花亭黒羽は部屋から逃げるように飛び出した。常人であれば確実に死亡しているであろう重症。入口には春風水面が居たが、あっさりと躱し部屋を出る。しかし、限界まで消耗しているようで、膝を折り倒れこんでしまった。すると、先程まで気絶していたはずのナサニエル・ノートンが立ち上がり、部屋の外から九条リリスを見た。九条リリスがそれに気付き、笑顔で手を振る。そして口元に手を添え、大きな声で話しかける。

「お名前くらい教えてくださいよー、トークは大事ですよう。別にもう少し遊んでからでも、わたしは構いませんけど」

「……この場は我々の負けのようです。リリスさん。私はナサニエル・ノートンと申します。役職は支部長です。親しみを込めて、ネイトと呼んでいただければ光栄です。こちらの大男は六花亭黒羽と言います」

「ネイトさん。ありがとうございましたあ。名残惜しいですが、わたしの部下が飛びかからない内に逃げた方が良さそうですう。まあそれも、ネイトさん次第ですがねえ」

九条リリスが微笑みそう言うと、ナサニエル・ノートンは軽く笑ってその場を後にした。二色空木月下と春風水面が、不満そうに九条リリスを眺める。だが、それを口にはしない。

「痛みを感じたってことは、死なないわねえ。最近効かない人が多くて自信無くしちゃう。これ以上は場合によってはお互いに死者が出たでしょうね。流石はIDIと言うべきかしら」

「リリス様! 私は何故生きているのでしょう」

二色空木月下が当然の疑問をぶつける。

「あら、ダメなの? 生きてちゃ」

「いや、決してそんなことはございませんが」

「なら良いじゃないの」

九条リリスが笑う。二色空木月下もつられて少し笑ってしまうが、それでも不満そうだ。その表情を見て、九条リリスが被せるように微笑む。

「さあ、後は片付けて、待つだけよ。盗聴器をどこかに着けているだろうから、死体は全て外へ出して。扉があった場所にはあ、一応壊れた扉を置きましょう。イレギュラーへ備えて。不都合は往々にして重なるものよ」

二色空木月下と春風水面は、言われるがままにした。彼女達には、自分が殺した人間の死体はもうただの物体にしか見えていないのだろう。

「ありがとう。水面、月下。では、モニタでも眺めながらしばらく待ちましょう。何か起きるはず」

「リリス様、あの、やっぱり私理由が知りたいです。私は死んだのでは……」

「……やっぱり聞きたい? そんなに怖い顔しないで……そうよね、月下ちゃん。解説だなんて、とてもするタイプじゃないのだけれど。後学のためにも必要かもね」

「はい! 是非教えていただきたいです」

「……平たく言えば、あなたは死ななかった。死の瞬間、わたしの持つ指輪の一つが身代わりになって命を失ったの」

九条リリスがモニタを眺めながら語り出す。二色空木月下は職務を放棄し、九条リリスを見つめている。燃えるような赤い瞳は、何を思っているのだろう。

「その指輪がこれね」

九条リリスが右手から指輪を一つ抜き取り、手のひらの上へ置き二色空木月下へ差し出す。それは、小さなプラチナのリングだった。シンプルなデザインで、特別なものは感じられない。

「さっきまで人形を閉じ込めた石がついていたのだけれど、無様を晒したくなかったのか逃げちゃった。あなたへあげるわ、大事にしてね」

「ありがとうございます……」

二色空木月下がリングを受け取ると、左手の人差し指にはめる。それでもう満足したのか、思い出したようにモニタの方へ向き直る。いや、まだまだ聞きたいことはあったが、今はそれどころではなかったのだ。

「……あのう、リリス様。私もお聞きしたいことが……」

「何かしら、水面」

九条リリスは、正直特異点のことで頭が一杯で、質問どころではなかった。だが、それでも可愛い部下の言葉だ、無下にはできない。二色空木月下も春風水面も、物理的な接触には高い耐性があったが、こんな部分ではまだまだフォローが必要だった。それが好ましく、かつ自身にとって有益だと思える余裕と自信を九条リリスは持っていた。

「……さっきのIDIの背の高い方が、リリス様が割る前から既に負傷していました。あれは何だったのでしょう。その前に、おじさんを蹴り出したことも引っかかります……」

「鋭いわねえ。ええと、背の高い方、六花亭黒羽ね。彼が負傷した理由は、月下に致命傷を与えた傷をわたしの人形が彼へ移したから。結局、彼は生きていたから、代わりに人形が命を捧げることで辻褄を合わせたけどね。そういうものなの」

「あと、わたしにも引っかかっているのだけれど、部屋の中にあなた達が入ること自体が、わたしの攻撃のトリガーだって彼は勘付いたみたい。だから、ネイトさんを無理にでも外へ出しつつ、あなた達を攻撃しようとした。どうやって検知したのかはわからないけど、偶然とは決して思えない。だから、あのまま続けることにはリスクがあると思ったの」

「そして、次に月下が部屋へ入った時点では何も起こらなかった。彼の判断は正解だったと言える。そこで、月下を始末しようとしたことが裏目に出たのねえ。勝ちたいなら、迷わずわたしを狙うべきだった。彼、わたしの生存を知っていたのだから。その後、わたしが近付いて、それで終わりかなあ。認識さえしてしまえれば、どんなに速くても関係無い。割れれば壊れる、当然のことね」

九条リリスが両手を軽く広げる、右手小指の青い指輪と、左手人差し指の黒い指輪が、優しく光っていた。

「幸福と不幸を操るアナスタシアと、空間を束縛するリーブラの組み合わせは面白いと思ったんだけど、今回は全然役に立たなかったわ。まあ、そんなところかしら」

「……そうだったのですね……申し訳ございません……」

「謝る必要は無いわ、あなたの行動は正しかった。わたしはそれを評価する」

「……はい……」

春風水面は少し落ち込んだ様子だった。彼女はモニタではなく部屋の中を見渡し、何かに備えていた。

「リリス様! これを見てください!」

二色空木月下が一つのモニタを指差す。九条リリスが二色空木月下の背後へ立ち、抱える体勢でモニタを覗き込む。示されたモニタには、拘束された多数の兎が積み上げられ配置された部屋が映し出されていた。数百羽にも及ぶ兎は、苦しそうにもがいており、もう動かなくなっている兎もいた。

「毒性試験かしらねえ、ラビットってそんなにメジャーなのかしら。体重が重過ぎるし、環境も不適切な気が。この時代のやり方には詳しくないけど、殆ど儀式ねえ。でもこの数じゃ特異点には干渉しない気もする。そもそもこの部屋でモニタされていることも……ん……なんだかどれも似ているような……」

「なんだか可哀想ですね」

九条リリスが淡々と解釈を述べる。二色空木月下は、自身のどこから来るのかわからない感情により少し胸を痛めていた。

突如、兎を映していたモニタの表示が消える。いや、一つだけでなく、次々にそれが広がっていく。数秒後には半分程のモニタが表示されなくなった。

「ここはもう駄目みたい。すぐに建物を出るわよ、離れずに着いてきて」

九条リリスがそう言うと、部屋の出入口へ向かう。壊れた扉が道を塞いでいるが九条リリスの能力であっさりと割れ、小さな三角形と四角形の集合になる。廊下へ出て、エレベーターで下へと向かう。エレベーターが止まることを春風水面は懸念し九条リリスをちらりと見たが、彼女は何も気にしていない様子だった。いざとなれば破壊するつもりだろう。だがそんな問題も発生せず、無事にエレベーターは一階へ到着する。

一階のエントランスホールに着くと、三人は何かに気付く。

「リリス様! お外が!」

「……異常です。まだお昼ですよ……いくらなんでもこの暗さは……」

二色空木月下と春風水面がアラートを上げる。九条リリスは、聞こえているのかいないのか無表情に外を眺めていた。そしてゆっくり息を吐き、そして深く息を吸うと、振り向き言葉を紡ぎ始めた。

「聞いてえ、月下、水面。ここからは忙しくなるから、一分で済ますわねえ。まず、ここまで来てくれてありがとう。あなた達には本当に感謝しているわ。人の道から外れたわたしを、ただただ信じて付いてきた。それは真実であり、わたしがこの世界で得た宝物。ここまで来てくれるだなんて、最初は想定していなかった」

二色空木月下と春風水面はすぐに事態を察し、真剣な眼差しで背の高いリリスを見上げる。

「と、良い話はこれくらいにして……」九条リリスがにやりと笑う。

「特異点は動き出した。しかも想定外の形で。もう準備は役に立たない。死にたくないならば、帰って寝た方が賢明。因果律すら意味を失う、運命の収束点に我々は立ち会っている。今回のようなケースはわたしも初めてよ、正直。生き残る自信はあるけれど」

「この先はわたしだけで行きたいの。あなた達は外で待っていて。今なら外壁を越えて逃げられるはず。これは命令よ」

九条リリスが淡々と告げる。そして戸惑う小さな二人を交互に眺め、軽く微笑んだ。被っていた深緑色の帽子を手に持ち、春風水面の頭へ被せる。続いてネックレスを両手で外し、二色空木月下の細い首へ着ける。

「……リリス様……」

「リリス様……」

「それではごきげんよう」

九条リリスがにっこり笑う。一方的な別れを済ませ、彼女は振り向き外へ向かう。ガラス越しに見える外は暗く、星も見えない。最後の自動ドアへ手をかざしただけであっさり割ると、九条リリスは外を見て立ち尽くす。外は夜ではなかった。もっと言えば、外なんて存在しないように見えた。建物の外側は空間すら存在しない、光を反射しない面としてのみ観測を許していた。

「…………………………まさか……もしかして……もう外なんて無いのかしら……」

九条リリスが気不味そうに振り向くと、二色空木月下と春風水面も気不味そうな様子で、表情を選べなかった結果かろうじて愛想笑いを作ってみせた。

7 グレーになんてなりたくない

巳様虹乃花は走っていた。そのすぐ後方を隣人愛が走る。研究所の敷地内、実験棟へ向かう。隣人愛は考える。いくらなんでも遠すぎる。見取り図はさっき覚えた。その情報が正しければ事務棟から実験棟へは、直線距離で400mもないはずだ。しかしもう体感時間で三分近くは走っている。しかも実験棟がやっと遠くに見えてから、少しも近付いていないように感じる。実験棟付近は夜より暗く、雨が降っているように見えた。

背後を振り返ると途方も無く広い空間が広がっており、隣人愛は絶句する。それでもしばらく走っていると、次第に周囲が更に暗くなってきた。すると、虹乃花の周囲に色の無い光が包み込むように現れる。

「埒が明かないわね。少し勿体無いけど、無理やり近付くわ。もう少し近くへ来て、愛」

「……これは空間が歪んでいるの?」

「一言で言えばそう。ただ、私の知らないやり方だから細かくはわからない。呪いかなあ、得体の知れない嫌な力が働いているようにも思える。干渉自体は行えているから問題無いけど」

周囲は益々暗くなり、一般人では数m先がやっと見える程の明るさになる。虹乃花には月明かりの夜程度には視認出来ていたが、それでも視界を奪われることは不安なことだった。冷たい光に包まれた巳様虹乃花が、隣人愛の左手を右手で握る。無表情な白い顔、大きな瞳は相変わらず何も語らない。その瞳はこの暗闇でも視力の良い者ならばそれを探せるくらいに黒く、全てを受け止める彼女の意志が表現されているかのようだった。

「進みましょう」

巳様虹乃花は左手に強く光を集め、行先へ差し出す。すると暗闇に細い道が現れ、二人に道を示す。視界から得られる情報が少なく遠近感が掴めないが、数百m程度の曲がりくねった線。その先に十一階建ての実験棟がそびえていた。その光景はどこか美しくすら見えたが、虹乃花は何も表情は作らない。その歩みは落ち着いていて、ただ静かに、油断はせず、確実に先を目指していた。そして実験棟の前まで辿り着いた。しかし、光を踏みしめる経験こそ無かったが、単なる散歩と大差は無いはずであるこの道程において、隣人愛が突然膝を落とす。握っていた手を離し両手を地面へ突くと、突然口から赤い液体を吐いた。その赤色を見て、隣人愛の瞳に焦りが浮かぶ。顔にはうっすら汗が滲み、身体には力が入らないようで小刻みに震えている。

虹乃花が隣人愛の背後へ立ち、両手を背中に当てた。虹乃花の右の瞳が一瞬だけ強く光ると、隣人愛の震えが止まった。

「とりあえずだけど治した。症状を教えてくれる?」

「あなたは本当に何でもありね。まるで全ての内臓が凍ったようだった」

そこまで言ったは良いが、隣人愛は心臓に直接ナイフを突き立てられたような感覚を覚え、また震え出した。虹乃花は何かを悟ったようで、身に着けていた十字架のネックレスを外し隣人愛の首へかける。すると、隣人愛の表情が安らぐ。痛みは消えており、身体はやや重たいが動ける程度だ。

「これである程度は防げるはずよ。立てる?」

「ええ……ありがとう……あれ? 虹乃花……なんだか瞳に……」

「何かしら?」

「あれ……消えた……気のせいだったみたい……」

「……そう」

隣人愛は、巳様虹乃花の黒い瞳の中で、自身が血を吐いて倒れる姿を目撃した。瞳に映る映像と、現実での行動が一致しない不可解な現状に、脳が処理を拒む。これが特異点か、と隣人愛は無理に自分を納得させる。二人はまた歩き出した。隣人愛はまだ身体は重そうではあるが、自分の足で立ち虹乃花の後を歩く。少し進み実験棟の付近に着くと、雨が降っており空に月が浮かんでいるのが見えた。虹乃花は雨など全く気にも止めず実験棟の入口の前に立つ。入口の自動ドアの前には人が一人倒れており、中は暗く、自動ドアは反応しない。巳様虹乃花が倒れている人物へ素早く近付き観察する。倒れている人物はスーツ姿の男性で、年齢は三十代から四十代に見えた。外傷は無いが、心臓は止まっているようで虹乃花が誰にも気付かれない程度に眼を細める。

「この人知ってる。IDIの支部長よ。なんとかノートンとかそんな名前。彼でもこの中へは入れなかったと言うことね。この国の諜報機関なんてごっこ遊びのようなものだけれど。ただ、それでも予算が下りるのは、化物を飼っているからだって噂もある。化物は来なかったのかしら」

「外傷も、全く抵抗した様子も無いのが不自然に見える。彼が一般人だとは思えないし」

それだけ言うと、虹乃花は倒れた男性の懐から拳銃を奪い、自動ドアへ向け、数回小気味良く引き金を引いた。ガラスが割れて中がうっすら見える。そこには十人程の男女が居た。半数程は既に手遅れであるのか、椅子や床に倒れたまま全く動かず、後の半数も苦しそうに手足を動かしていたり、どこか遠くを見たまま虚空を眺めていたりした。銃声に反応する者すら一人もおらず、全てが異常を示していた。

「不可解。症状に個人差が大き過ぎる」

「なによこれ……地獄?」

二人が同時に感想を漏らす。巳様虹乃花は相変わらずの無表情で、割れたガラスの隙間から身体をねじ込み実験棟の中へ入る。隣人愛も恐る恐る虹乃花についていく。隣人愛がガラスに触れそうになり気を取られていると、先を歩く虹乃花が突然仰向けに倒れ込んできた。隣人愛は受け止めようとするが、その手は虹乃花の身体をすり抜ける。触れられないばかりか、その身体は次第に透明になりつつあった。倒れた虹乃花が、仰向けのままで隣人愛へ視線を送る。その瞳から急速に色が失われていく様子を、隣人愛は最初から見ることとなった。

「愛。私が見えなくなったら、あなたはもう帰って。大丈夫、なんとかするわ。特異点は必ず収束する」

「何よそれ……あなたが死んだら意味が無い」

隣人愛はそう言うと、眼を閉じた。すると、巳様虹乃花の外見だけではあるが、普段通りの姿へ戻る。

「これで、表象は回復した。あなたなら動けるはず」

巳様虹乃花が立ち上がる。いや、少なくともそう見えた。だが、巳様虹乃花は立ち上がったまま動かない。

「どうしたの? 虹乃花」

「……レイヤーを被せただけで干渉されなくなるだなんて、意志を持っているとしか思えない……。そして個体差……愛、今まで人を殺したことは?」

「何よ突然。その質問は野暮よ虹乃花……この業界では……でも、経験が無いとは言わないわ……」

隣人愛の精一杯歩み寄った返答。

「……罪の精算? 罪悪感に付け込む能力? カルマの量が関係しているのかも……。もしかして……」

巳様虹乃花が歩き出した。周囲の人間達を観察して回る。一周すると、今度は建物の外へ出る。隣人愛も慌てて追いかけると、虹乃花は仰向けに倒れてしまっていた。

「虹乃花! しっかりして!」

隣人愛の呼び掛けも巳様虹乃花には届かない。既に聴力は失われているようで、瞳だけがかろうじて隣人愛を追う。彼女の罪を洗い流すかのように雨粒が全身を叩く。瞳はグレーへ変色しつつあり、今も変化を続けていた。巳様虹乃花は自身の置かれた状況をよく理解していた。考えれば、実験棟へ接近してから自身の判断は不自然であり、意識そのものへ干渉を受けていたのだろう。恐らく、結果は決まっており、それへ向かって自分は操り人形にされた。罪の重さが罰の重さであるならば、今の自分にはお似合いだ。しかし、このまま死ぬしても殆ど過去が思い出せないのが心残りだ。記憶に制限を受けているのだろう、奪われたのか上書きされたのかもわからないが。もしかしたら、今の私はコピーなのかも知れないな、とまで巳様虹乃花は考える。ならば、全てのリソースを思考力に変えてしまおう。特異点が特異点であり、私が私であれば、それは許されるはずだ。いや、それだけが許されているとさえ思える。すると、巳様虹乃花の髪や瞳が、光るように変色し、次第に白へと収束する。色を失いつつ彼女は考える。演繹を求めるにはあまりに情報が足りず、根拠となる自身の記憶すら信用は出来ない。それでも彼女は、何もかもを失いつつあるその中で自我を保つことを選択し、まだ戦い続けていた。

与えられた時間の中で、まず今手にしているものを整理する。記憶と、今感覚器官から得られる情報。記憶に関しての不整合へ注目すると、綻びは明確だった。明らかに記憶が足りておらず、他人は覚えているのだが、もう自分の家も思い出せない。そして現在を基準に遡り、隣人愛へネックレスを渡したシーンを思い返して気付く。………私の記憶の中での映像に、私が写っている…………。その光景は自身の瞳ではなく、どこか少し高い場所から自身が祝福した十字架を与える所作を真実として記録していた。時間の流れが緩慢に感じる、止まりかけていた心臓の音がはっきりと聞こえる。ある一つの仮説が彼女の中で生じたからだ。

「まさか…………そんな……この世界に………このレイヤーに………神が存在するとでも言うの……?」

巳様虹乃花は最後にそう言うと、視界は白に染まり、もう何も見えなくなった。最後が白で良かったわね、と他人事みたいにふと思う。白は優しい。黒も優しかったけど、私には守れなかった。彼女がもう見えない瞳を閉じると、隣人愛が何か叫んでいたが、それを認識する感覚器官が彼女には残されていなかった。

8 箱中アリス

九条リリスは大きな箱の中に居た。管理棟の一階の出口が機能を失っていたためだ。二人の部下、二色空木月下と春風水面を引き連れ、エレベーターで十三階へと向かっていた。

「……上には何があるのでしょうか?」

「中庭があるの。きっと外へ出られるはず、少なくとも、見える」

春風水面の質問に九条リリスが返答する。落ち着かない雰囲気の中、エレベーターに無事十三階へ到着した。九条リリスはエレベーターの十七階のボタンを押してからフロアへ出た。フロアは暗く、人は誰も居ないようだ。中庭の入口はガラス張りになっており、外から光が射す。空は雲が多くやや暗かったが、それでも三人の表情は明るくなった。

九条リリスが躊躇なく大きなガラスを割ると、三人は中庭へ踏み込んだ。隅に扉はあるのだがお構い無しだ。先程まで雨が降っていたようで、何もかもが濡れている。

「リリス様、もう先に帰れとか言いませんよね?」

二色空木月下が先手を打つ。その様子を、春風水面はリリスから貰った帽子を風に飛ばされぬよう、軽く押さえながら眺めている。

「……言わないわ。三人一緒よ」

「良かったです」

二色空木月下が安堵する。春風水面は外部から見られぬよう、身を低くして柵の間から周囲を警戒していた。

「……リリス様、二点ご報告です。実験棟付近に怪しげな影が見えます。多分イメージを被せています。こんな芸当が出来るのは巳様虹乃花さんのお仲間かも。もう一点、研究員と思われる人間が複数人倒れています。誰一人意識は無いです。動いている物体は何もありません」

「ありがとう……うーん…………帰るべきかも……」

春風水面の報告を受け、九条リリスは考えていた。察するに、特異点は低い位置で発生し、近付けば害があるようだ。と言うか、既に収束しつつあるのだろう。変化したため仕方無い点もあるが、結局干渉には失敗してしまった………………とても残念。途端にやる気が無くなり、自分の中の何かが冷えていくような感覚を覚える。しかし、手にしたこともある。監視室での映像と合わせると、原因は実験棟のラビットである可能性が高い。後で根本原因を追う必要はあるが、何かしらの偶然が重なって、特異点の中心となったのだろう。もしそうだとすればこの情報はかなり有益だ。再現性の有無に関わらず、わたしをきっと満たしてくれる。対応策は落ち着くまで待つのが最も安全。時間が全てを薄めてくれるはず。ただ、ナサニエル・ノートンが外部へ連絡を取っているだろうから、IDIに接触されるリスクは増す。可能ならば巳様虹乃花と接触し、あわよくば拉致して何もかもを奪ってしまいたいが、かなり難しいだろう。足手まといを連れていたり、負傷したりすればまだ可能性はあるが、そんな幸運はなかなか期待出来ない。

「そうね、帰りましょうか、実験棟から最も離れるルートで。IDIの方達がいらっしゃると困るわ。水面、実験棟にマイクを仕掛けて欲しい、ここから飛ばせる範囲で構わない。出来れば入口付近が良いわね」

「承知しました」

春風水面がバッグから組み立て式のライフルを取り出し、慣れた手つきで何かの準備を始める。

「リリス様、この場で決着を求めるのはいかがでしょうか? 彼らは我々を許さないのではないかと思いますし、このパーティーなら負けません。それに、証拠も隠蔽しやすいかと」

二色空木月下が手を上げて発言する。燃えるような赤い瞳が、真っ直ぐにリリスを射抜く。小動物を可愛がるような弱さと、好奇心で人を殺せる衝動を重ねた少女期特有の瞳。九条リリスは簡単にそれを受け止め、ただ微笑んだ。

「月下ちゃん、それは大丈夫。組織と個人では意思決定の基準が異なるわ。もし彼の部下が無抵抗だったらその懸念はあったけど、今回は彼らから仕掛けてきた。監視対象にはされるだろうけど、殺すことは優先されない。お互いに損するだけだもの。やるなら暗殺とか、目立たない方法が良いわねえ」

「そうなんですね……」

二色空木月下があまり理解しないまま返答する。

「ところで月下ちゃん。わたしを抱えてここから飛び降りられないかしら? 勘だけど、

建物の中へはもう戻らない方が良いと思うの。ちょっと怖いけど…………」

「お任せください! 特技です!」

二色空木月下が嬉しそうな顔をする。高い場所から降りることそのものが好きなのだろうか。

「私にはこの高さ、ちょっと厳しいです。大怪我です。ですので、壁を伝っていきますね。五階程度の高さになったら飛び降りますのでしばしお待ちを」

「わかったわ。後は敷地を出た後のことをお話しないとね。西の森にも脱出手段を用意させてあるからそれで帰りましょう。あなた達なら走った方が速そうだけれど。過程で何かあったらいずれかの隠れ家へ向かってね。そして安否連絡を必ず早急に行うこと。その際は、『Birthday』という単語を必ず含んで欲しい。それ以外は全て危険な状況に置かれていると解釈するわ…………ご質問はあるかしら?」

「ありません」

「……理解しました……」

それだけ会話すると、三人は動き出す。二色空木月下が九条リリスを抱え、あっさりと柵を蹴り虚空へ飛び出した。九条リリスは落下しながら自分より遥かに小柄な少女へしがみ付き、ひたすらここへ来たことを後悔していた。信じてもいない神にまで祈る勢いだ。春風水面は仕事を終えたようで、ライフルを分解してリュックに入れる。その代わりに小石のようなものを取り出し、幾つかを放り投げる。何かしらの観測機器だろうか。その後、リュックを先に放り投げると、壁を伝って九条リリスと二色空木月下を追いかけた。

9 夢

アルパイン実験動物研究所の敷地内、実験棟の屋上で、巳様虹乃花は自身で描いたであろう床へ円形に広がる模様の上に居た。膝を折り、両手を組み、俯いていた。ちょうど、何かに祈りを捧げているような姿勢だった。青一色で描かれた円は半径五、六メートル程あり、こういった営みで個人が行うにはかなり大規模で虹乃花の自信と力量を示していた。模様は独特で、幾何学的ではあるがどの体系にも合致せず、思い付きで描いたような部分さえ混じる。明らかに犬の絵に見える模様さえあった。部分的に失敗したのだろうか。いや、これこそが巳様虹乃花の本質かも知れなかった。彼女は、先人の知恵すらも一つの方法に過ぎないと考えていたし、目的のためならば、人類が積み上げた昨日までの叡智を破棄しても、全く構わないと考えていた。そもそも敬意すら持ってはいないとすら思える。終末を知る彼女からすれば、至極当然の態度であるとも言えた。しかしそれでも、彼女の今日は昨日までの未来が残した希望であり、人類に許された最後の運命への抵抗だった。開けば閉じる円の中で、限られた時間的、空間的広がりを精一杯利用し、選択を繰り返す。床へ走る線の集まりは青く冷たく瞬き、そんな虹乃花の祈りに応える。円の上には虹乃花の他に複数の人間が存在したが、虹乃花以外は気絶しているように見えた。殆どは研究所の所員だが、隣人愛も混じっていた。

隣人愛は、白衣こそ血塗れだがただ気絶しているようで、呼吸も正常に行っていた。しばらくして隣人愛のみが眼を覚ます。周囲を見ると、先ほど看取ったはずの巳様虹乃花の存在に気付く。慌てて駆け寄ると、彼女は顔を上げ、少しだけ顔を綻ばせる。

「愛。眼を覚ましたのね。今我々は特異点の中に居る。まだ眠いだろうけど、円から出ない範囲で観測をお願い。後でそれぞれの認識を共有したい」

「虹乃花! 虹乃花……生きてたのね……良かった……」

隣人愛が瞳を潤ませる。その反応に巳様虹乃花は面食らうが、すぐに何かを察したようで、優しい視線を隣人愛へ向ける。

「……大丈夫、ここが現実よ。答え合わせは帰ってからしましょう。とりあえず安全地帯はほぼ作れたから、可能であればあなたの能力で外部からこの空間を見えなくして欲しい。一般人に見えなければそれで良いわ」

「……わかったわ」

隣人愛が円周に沿って歩く。血塗れだった白衣は新品同様になっており、佇まいにも全く弱った素振りはない。この偽るための能力が彼女に与えられた贈り物であり、彼女の人格形成へも大きく影響していた。隠そうと思えば何でも隠せてしまう自由が、常に幸せとは限らない。

隣人愛の行為を確認すると、巳様虹乃花はどこからか取り出したライフルを構えた。大きな銀色のスナイパーライフルで、全長は150cmほどあるだろうか。殆ど彼女の背丈と変わりはない。かなり重量はありそうだが、巳様虹乃花は軽々とそれを扱っていた。立ったままライフルを構え、スコープを覗き周囲を見渡す。巳様虹乃花が描いた円の外は暗く、雨が降っていた。

「虹乃花、貼り終わったわ。これで外部からは観測されないはず」

「ありがとう」

「それ、もしかしてスターライトスコープ? あまり見かけない形だけど」

「ああ、これはレガッタスコープと言って、思考を可視化するもの。相手が何か考えていればその姿が見える」

「何それ。思考って外部から観測可能な何かを発するものなの? ちょっとついてけないけど凄いわね」

「勿論。全ては重ね合わせで表現される。元々は上……いや、九条リリス考案の論理スコープを私が少し弄ったもの。ここにしか存在しないから、大抵の相手には先手を打てるはず。特に、距離空間すら信じられないこんな地平では」

「この眠っている人達は?」

「一般人よ。ここで死ぬのが自然なのかも知れないけど、目に付いたから助けることとした」

「優しいわね。あなたのそういうところ大好き」

「……気紛れよ」

巳様虹乃花は、立ったままの姿勢でスコープを覗き周囲を見渡す。屋根も無いのに雨すら避ける特異な円の中、信じられるものを集める試み。限られた空間と時間の上に、丁寧に自身のルールを紡ぎ、ただ戦い抜く。普段の彼女がそこに居た。隣人愛はここに危険は無いと判断したのか、自身の装備を確認する。銃弾はまだまだあるが、連絡用端末は機能せず、GPSも反応しない。照明弾やワイヤーなんかはまだ残っているものの、この状況下ではどうにも役立つ気はしない。腕時計は15時2分を示していた。

「虹乃花、今何時かわかる?」

「14時33分55,6秒よ」

巳様虹乃花はスコープを覗いたまま返答する。彼女の時計は正確だ。少なくとも、彼女にとっての時間は。隣人愛は左手を上げ、腕時計を巳様虹乃花へ向けると、彼女はそれだけで理解した。

「愛、私は生きているわ……それは真実」

「あなたに修飾は不要だろうから、事実だけ言うわ。あなたは私の記憶の中で、死んだ。実験棟の一階に入った後、瞳が白くなって……最後には、神の存在を示唆していた……」

「………………ありがとう。大体繋がった……」

巳様虹乃花はライフルを下ろした。そして紺色のベールを左手で掴み、投げ捨てる。その行為の意味が隣人愛にはわからないが、特に聞くこともしない。虹乃花は相変わらずの無表情で、顔色からは何も読み取れない。

「今回の特異点は、複合系のようね」

「複合系?」

「小さな奇跡が複数同時に発生しているのだと思うの。時間の非同期に惑わされてしまったけど、私の記憶よりは悪くない状況。リリスのおかげなのかなあ。わからないけど」

「別のことが起きているのね?」

「そう。恐らく、時間の非同期は副作用で、あえて一言で表現するならば、カルマの精算が発生している。それが仕切られた空間単位で起こったから、処理が追い付かない、処理落ちに近い問題が発生し、時刻がずれた」

「業(カルマ)? 本当にそんなものがあるの?」

「あるわ。別に宗教的なものでもなく。この時代には無い概念だけど、世界へ対するある解釈として、生物は物理層とは別のレイヤーに厚みを持ち、情報とエネルギーを保持している。殆どの人間はそれを無意識下でしかコントロール出来ない。あなたなら理解出来るはず、多分」

「……とりあえずわかったわ。精算とは? 罪と罰をイメージしてしまうけど」

隣人愛がゆっくりと周囲を歩き出す。考え事をする際の癖なのかも知れない。巳様虹乃花はどこからか銀色のカードを取り出し、軽く放る。小さなカードが地面に落ちると、立体映像が現れる。この周囲のマップが、半透明の点と線で表現されていた。巳様虹乃花は青い点として存在する。会話に意識を割く準備であるのかも知れない。

「これも慣れない概念だと思うけど、例えば他者を殺すと、そのエネルギーを少し奪える。少しと言うのは、実は全てでは無く、殆どは飛散するか、どこかへ消えてしまう。殺害方法にもよるけどね。逆に、奪うことの方が実は特殊で……まあ、それは余談……簡単に言えば、殺人者はそうでない者と異なった状態になる。精算とは、それを平らな状態にすること。その際、人間の物理層である肉体は衝撃を受ける。形を保てない場合がある程大きな衝撃を」

「………………何かは理解した。ただ、何故そんなことが?」

「ここから先は私も掴みきれていないけど、さっきのあなたの言葉で少し進めた……真っ白になるまで考えた答えがそうなら、そんなに外してないはず」

巳様虹乃花が言葉を選ぶ。

「多分、この世界はそう定義されているのでしょう。開けば閉じるような、絶対のルールを。ここではない、別のレイヤーで。それを定義したのは自由な意志ではないのかも知れないけど、それを神と呼ぶことは不自然ではない」

「……この世界はそう出来ているってこと? ただ、精算だなんて不自然に聞こえるわね」

「簡単に言えば、地震みたいなもの。天災。歪みが蓄積した結果、影響だけが極端な形で見えてしまうのね。あれ、ちょっと違うなあ……後でまたよく考えてみるけど」

「うーん……どうなのかしら……ちょっと理解が追い付かない……」

隣人愛は俯き、コンクリートの上に描かれた模様を眺める。その中に神と悪魔が戦う模様を確認し、線を追ってはみるが何も得られない。

「ともかく、未来はかなり変化したはず。少し落ち着くまでここで待ったら、これ以上は求めないで帰りましょう。後は観測機器に任せて、帰ってからデータを分析すればいい。命は一つだから」

巳様虹乃花はライフルをそっと置き、両手を軽く広げ天を仰ぐ。星も見えない空の下、彼女の中では光が見えつつあった。他者というフィルターを介し、文字列としてのみ得ていた情報を頼りに大きな決断を下した。信じられない部分も多かったが、今回の観測で幾つかの点を繋げることが出来た。後は未来を紡ぐために、生き残るだけだ。

10 青方偏移

特異点と化したアルパイン実験棟の敷地内、昼夜の概念を失い外界と切り離されたその空間で、まだ動く人影が居た。それは一人の男性で、黒い燕尾服を着ておりセキュリティカードも下げておらず、少なくとも研究所や関係者では無関係であろう出で立ちだった。背は165cmより少し高いくらいで、年齢は二十代後半から三十代前半に見える。生まれつきなのだろうか、青みがかった瞳と癖のある黒髪が特徴的だ。線は細く、佇まいからも特殊な訓練は受けていないことが見て取れる。それでいて非常に落ち着いており、まるでこの異常事態を感じていないかのようだった。黒い雨粒が彼を叩くが、それも全く意に介していないようで傘も差していない。

「また居ましたか」

彼が呟くと、その視線の先には白衣を着た研究員の男性が居た。既に何かあったようで、舗装された地面へうつ伏せに横たわり弱々しい呼吸を続けている。彼は男性へ近付くと、首の後ろと頭を手で抑え、普段動かない方向へ無理やり動かした。嫌な音がして、男性が一瞬だけ動いたような気がしたが、それきりだった。彼は自分で壊した男性をつまらなそうに一瞥すると、無言で立ち上がりまた歩き出した。

「つまらない…………全然面白くないじゃないか………情報部なんて……」

それでも彼は歩く。誰しも決められた枠組みの中で選択を繰り返す。黒い雨はますます雨脚を強め、雨粒が彼を容赦無く叩く。びしょ濡れになりつつ、やっと実験棟までたどり着くと、周囲を見渡す。すると、何か閃いたのか突然外壁を登り始めた。革靴はやはり滑るようで、殆ど手の力だけで登っていく。そういった活動を想定しないはずの大きな箱を、ごく当たり前という態度で。ものの一、二分で屋上へ着くと、彼は遠くを眺める。視界は悪く、あまり遠くは見えないはずなのだが、彼は何かを感じているようだ。暫くすると、何かを見付けたようでにやりと笑った。

「上手に隠れている。こんな器用なことが出来る輩はIDIには居ないし、研究員でもないな」

そう言うと、建物の屋上で突然走り出した。まさか、この距離を飛ぶつもりだろうか。しかし、踏み出す直前に突然左足に痛みを感じバランスを崩してしまい、地面へ落下することとなった。見ると、太腿に小さな穴が空いていた。それでもあっさり着地すると、彼は上を向き、少し笑った。そして、次の瞬間、一気に地面を蹴り飛び出した。目的地までの距離が一瞬で消える。次の瞬間には、彼は青い線で形成された円の上に居た。

11 噛み合わない

彼が円の上へ現れる五秒前、巳様虹乃花が何かに気付いた。人が走っている……しかもこちらへ向かって。この距離を飛べる人間なら、少なくとも普通ではない。彼女はあっさりと決断し、ライフルを構え、引き金を引く。それだけで仕事は終わったはずだったが、的は次の瞬間にはスコープの中から消えていた。

巳様虹乃花が経験則で咄嗟に飛び退くと、先程まで自身が居た場所に男性が立っていた。

「凄い、雨も降らないのですねこの中は。屋根も無いのに」

突如現れた男性は、円の上を歩きながらそう感想を漏らした。隣人愛はどこかへ隠れているようだが、気付かれているかどうかはわからない。彼は倒れている研究員の側へ通りがかると、右足で首を踏み、あっさりとその命を奪おうとした。巳様虹乃花はその行為と、自身が負わせた怪我は治っていないように見えるにも関わらず、運動能力が損なわれていないことをただ確認していた。

「何か御用かしら? 雨宿りでは無さそうだけれど……既に濡れているものね……風邪引くわよ……」

「アルバイトって、されたことあります?」

「……」

「僕は今してるんですけど、これがなかなか大変でして。雨には降られるし、手は汚れるし」

「…………」

「それに、退屈でたまらない。生活のためだと知ってはいても」

「………………そう……それは大変ね……」

「そう! そうなんですよ! でも君が居て良かったー。やっと少しは楽しめそうです。無抵抗な人の相手はつまらないですから」

「……………………なかなかストレートなタイプね…………お名前は? この施設の方ではないわよね……」

巳様虹乃花が拳銃を取り出しつつ返答する。大きな銀色のリボルバーが冷たく光を反射する。彼女はこの状況でも至って冷静だ。むしろ、誰かに操られた状態や特異点による被害で精神が壊れた人間ではなさそうなことに、安堵すら覚えていた。只の異常人格者であれば、それなりの対処方法を知っていたからだ。

「今日はオーウェンと呼んでください。君の名前は、どうせ忘れるので聞きません」

オーウェンと名乗る男性が地面を蹴り虹乃花へ襲いかかる。それを受け、巳様虹乃花は銃を構えると、連続して引き金を引いた。淡々と急所を狙う冷たい判断。オーウェンの胸に穴が空く。だが、血も流れなければ倒れもしない。二人の間合いが詰まる。しかし、巳様虹乃花の方が遥かに俊敏だった。虹乃花が足払いを見舞うとオーウェンは簡単にバランスを崩し、その上後頭部に銃弾を受け、今度は倒れることとなった。

「死にたいの? 私は私に敵対する相手には厳しいわよ。なかなかタフみたいだけど、切断されたら流石に動けなくなるわよね?」

「……凄い……IDIには居ませんよ……君のようなレベルの人間は」

オーウェンはあっさりと立ち上がる。先程から巳様虹乃花が優勢ではあるのだが、まるでダメージを感じていないような振る舞い。青みがかった瞳からは、退屈の色は消え失せ、今は歓喜が満ちていた。

「何度倒れても、諦めずに立ち上がれば良いのですよ」

「良いこと言うわね……あなたの墓標にでも刻んで貰えば良いんじゃないかしら……」

彼は武器を所持していない。自分の能力に絶対の自信があるからだ。事実、彼は今まで負けたことなど皆無だった。苦戦の経験すら殆どない。そんな彼が求めていたのは、巳様虹乃花のような強敵であったのかも知れない。彼女にとっては迷惑極まりない話だが。

オーウェンがそれでも間合いを詰める。無謀とも思えるその短絡的な行動が、巳様虹乃花をかえって警戒させる。だが、少し近付いたところで動きを止めた。足に線が走ったからだ。気付かない間に巳様虹乃花がワイヤーを張っていたようだ。どうやって空中へ固定しているのかはわからないが、首の高さへ設置しなかったのは優しさか甘さか。

「この僕を相手に手加減とは……許せません…………」

「……」

オーウェンがワイヤーを無視しそのまま前進する。巳様虹乃花は数歩後退するが、そこであることに気付いた。自身は移動したはずなのだが、オーウェンとの相対座標が、全く変化していないことに。

「お気付きの通りです。もう離れませんよ」

その言葉を受けて、巳様虹乃花が銃を下ろす。何を考えているのかは彼女にしかわからない。

「……あなたが怪物なの……?」

「よくご存知ですね、と言いたいですがそれは違います。君へのプレッシャーのためにお伝えしておくと、怪物なら今こちらへ向かってます。僕の役目は、情報をこの敷地から出さないことです………………ところで、君の瞳に僕はどう映っていますか?」

「今のところそんなに印象は良くないわね…………」

「ははは、そうですかそうですか。この状況で少しも恐怖を見せないとは」

「もしかして……もう勝ったと思ってる? 今の内に認識を改めた方が良いわよ」

「……」

「全く……仕方無いわね……少し遊んであげるわ…………今のは忘れて……」

「…………君は最高です」

「OK。いつでも良いわよ」

巳様虹乃花がわざとらしく構えた。専門外であるはずなのだが、徒手でやるつもりのようだ。銃で撃っても制圧出来ないような、自己認識すら支配した人間を殺さず屈服させる、彼女が考えた方法の一つ。勝つとは相手の心を折ること。こいつとは二度と戦いたくないと相手に思わせること。それを実践してみせるつもりか。隠れていた隣人愛は、その様子を眺めつつ考えていた。巳様虹乃花は、こんな手合いさえ本当に殺さないつもりのようだ。その選択は傲慢で愚かだと、勝手に推し量っていた自分。実現性は低いと感覚的に想像し、熟考すらも避けていた。ふと眼を向けオーウェンが殺害したはずの研究員も、意識は無いようだが呼吸を続けている。彼女なら本当にやれるかも知れない、そう思わせるだけの何かを感じつつあった。

気付けば雨は上がっていた。空はやや明るくなっており、収束が近いことを示す。

12 完全に実現されるか、一つも実行されない

「さて、帰りましょうか」

巳様虹乃花は、まだ青い円の上に居た。たった今オーウェンの相手が終わったようで、彼は円の外で倒れている。戦力は削がれているようだが意識は保っており、ただ空を眺めていた。周囲はすっかり元通りになっており、収束を知らせる。オーウェンは、自身の敗北をようやく認識しつつあった。もう戦意は消え失せ、どうにでもなってしまいたいような気持ちになっていた。このまま死ねたらどんなに気持ちが良いだろうと、無責任に思考する。円を構成する青い光の線も役割を終え、光を失いつつあった。

「終わったようね」

隣人愛が缶コーヒーを片手に呟いた。その緊張感が無さ過ぎる様子を指摘して欲しかったようだが、巳様虹乃花にそのような引き出しは無い。

「ええ、軽い運動になったわ」

「お疲れ様。ついさっきだけど、人形から情報が入ったわ。西のゲートの付近で待っているそうよ」

「ありがとう。後始末をしたら、すぐに向かいましょう。IDIとはこれ以上関わりたくない」

虹乃花は側で倒れている研究員を一人一人観察し、必要であればその場で簡単に治療する。治療を終えると、二人は西へ向かった。敷地内は先程よりずっと狭く見える。今が正常なのだろう、隣人愛はまだその不可解な事象が飲み込めないまま、辺りを見回していた。西のゲートは開いたままで、警備員も居なかったが、二人は横の柵を乗り越えて脱出する。15時2分、概ね虹乃花の予定通りであった。

柵を超え、コンクリートの上に着地する。柵の外は道路に面していて、見通しが利き過ぎる点が気になった。先程まで雨が降っていたはずだが、路面は全く濡れてはいない。それに、つい先程まで交信していたはずの人形の姿が見えない。彼の性格ならば、確実に迎えに来ただろう。他に人影も見えないが、二人は道路を渡り奥の森へ逃げ込む。背の高い木々が立ち並び、足場も不安定だがそんなことはお構い無しだ。

嫌な予感がしていた。

森の中、少し進むと、ある境目から急に木が無くなっていた。いや、樹木は全て破片となり地面へ積み重なっていた。広い森の中、まるでそこだけ切り取られているかのようだった。また、よく見れば境目には半透明の壁のようなものがそびえ、内部は透けて見えるが正しい映像かどうかはわからない。

「リリスの仕業ね…………」

巳様虹乃花はそう呟くと、静かにその上へ足を踏み出す。何があったのかはわからないが、何かあったのだと考えていた。もう隠れるつもりも無く、ただ真実を求めていた。

13 Ddat Party

そこから森は消えていた。木々は形を失い、破片となって積み重なっていた。今しがた到着したばかりの巳様虹乃花には、結果のみを瞳から知ることが許された。彼女の瞳に色は無く、外部へ情報を漏らさない。

巳様虹乃花の瞳の先で、二人の男女が少し離れて立ち話をしていた。一人は笑っていて、一人は悲しそうな顔をしていた。悲しそうな表情の男性は、虹乃花のよく知る人物であったが、女性の方は全く情報が無かった。二人の間には三人の女性が居た。九条リリスとその部下だろう。二人の部下は外傷こそ無いが意識も無いようで、地面に倒れていた。九条リリスは起きてはいるが膝を着いていて、身体への損傷からか呼吸が弱くなっていた。血液を失い過ぎているのだろう、殆ど思考を繋げていないようだ。何故か細いワイヤーを首に巻き、両端を自分の手で持っている。巡音奏の姿は見えないが、人形の判断で逃したのかも知れない。それなりに悪い状況なのだな、と巳様虹乃花はぼんやりと捉え、何について考えるかどうかに迷っていた。とにかく時間に余裕が無いことを察していた。

「待ってください、何故です? リリスさんの行為はそこまで咎められる程ではない」

人形が戸惑った表情で向かい合う女性に質問を投げる。彼が消したのだろう、九条リリスを縛るワイヤーが突然消失した。九条リリスは電源が切れた玩具みたいに動きを止めた。

「うーん、機密保持、ってとこかしら」

それだけ言うと、女性が人形に近付いた。ゆっくりと背後に回ったかと思えば、そのまま両手で彼を抱き締める。赤いコートの袖から伸びる細い手が、彼を捕まえてしまった。人形は驚いていた。逃げようとしたはずが、身体の自由が効かない。今だって逃れられるはずなのに、今出会ったばかりの彼女から目が離せない。非常に不味い状況。

「さあ、あなたの名前を教えて」

「……人形と申します」

「ふうん、変わったお名前ね……では最初の仕事をお願い……今来たシスターを排除して頂戴、この空間には相応しくない」

「承知しました」

「私のことはカノンって呼んで、よろしくね、人形」

やっと二人が離れると、人形は巳様虹乃花の方を見た。その表情はどこか寂しく、思い詰めているようにも見えた。一方、巳様虹乃花は静かに怒っていた。彼女が感情を浮かばせることは非常に珍しい。

「人形くん、操られたことは怒らない。それは常に存在するリスクであるから。ただ、相手が美しい女性だからって油断したわね? その点は不満です。とても、とっても」

巳様虹乃花の右手の指先が優しく白く光る。その光は手を動かした後もしばらく残るようで、空間に軌跡を描いていた。相手は人形、手札を隠す余裕は無い。

「愛、離れてて。危険だわ」

「虹乃花、あなたには今更だと思うけど忠告しておく。本気でやらなきゃ殺される……逆に殺さないで制圧なんて不可能……最悪の事態と言っていい……」

「ご忠告ありがとう、じゃあ、またね」

巳様虹乃花が駆け出した。彼女の知る人形の能力で、まずやっかいなのは空間の削除だ。かなり距離が離れていても、全く予備動作無しでデリート出来る。正直、先手を打たなければお話にならない。あっさり消されて終わりだろう。通常、誰かに遅れを取るなど考えられない能力。存在を認識さえすれば、どんな強大な相手でも消せるのだから。だが人形はその場から動かなかった、ただ虹乃花の接近を待っているかのようだった。そのほんの数瞬の間に、彼の身体に格子状に線が走る。そして、巳様虹乃花の目の前で彼の肉体が崩壊した。その様子を、巳様虹乃花はただ無表情に観測していた。それでも、彼女が動揺していることは見て取れた。巳様虹乃花の視線が人形から外れる。

「虹乃花さん! わたしはこんなつもりじゃ……」

「リリスさん、あなたのファイルは読みました。賢いあなたにしては珍しいミスね。千慮の一失だとしても、あまりに運が悪かったわよねえ? まかり間違っただけよ、いつまでも気に病むことはない。明日はちゃんとやってくるもの、生きてさえいれば、だけど」

九条リリスの発言をカノンが遮った。機を逃さず揺さぶりにかかる。しかし、これは明らかに失敗であった。経験則が招いたミスか、考慮不足か。いや、自分のファイルに無い実力者の存在を認識出来ていなかったことだけが事実であろう。カノンは巳様虹乃花を知らなかったのだ。

「………………どうやら全員死にたいようね……」

巳様虹乃花がぽつりと呟いた。右手の軌跡は青色へ変化し、身体は震えていた。表情こそ作らなかったが、瞳は灰色になり、静かにこの空間全体を見つめていた。

14 私を許さないで

巳様虹乃花は迷っていた。自分自身に戸惑ってもいた。今日の目的は達成した。それが犠牲を伴ったものであったとしても。

しかし、現実にはどうだろう。今すぐ世界を滅ぼして、自らも永遠に眠りたいような気分になっている。あまりに自分勝手だな、と頭の中で誰かが吐き捨てる。その通りだとも思う。チームを編成したのは私だ。立案も私。責任者も私。誰も彼も、私の為に動いていた。どうしようもない人間だと思う。それでも、決断は迫られた。ここは自分の部屋では無い。早急に選ばなければ、全てをただ失うだけだ。じっくりと考えたり、感傷に浸ったりする時間など無い。

巳様虹乃花が目を閉じている数秒間、誰も動かなかったし、誰も口を開かなかった。九条リリスが敵であるカノンへ視線を送る。その程度には、彼女はこの状況に困っていた。

「……あっさりやられちゃったわね、私のナイト。どうしようかな、自己紹介は不要よね?」

カノンが言葉を紡ぎながら、巳様虹乃花を観察する。操れなければ仕方無い、始末してしまうか。血を見たい気分でもないし、手を汚したくもなかったが、そうも言っていられないようだ。カノンが懐から拳銃を取り出す。だがこれは発砲が目的では無かった。ただ、周囲の視線が欲しかった。自身が有利になるために。

しかし次の瞬間には、虹乃花の左手が顔にめり込んでおり、数メートル吹き飛ぶこととなった。吹き飛んでいる最中にも、虹乃花はカノンへ銃を向け、両の手を撃ち抜く。脚を狙わないのは、これから別の方法で破壊する気なのだろうか。出血は激しく、血しぶきが舞う。

「立って…………カノン? さん……」

巳様虹乃花が銃を放り投げ、カノンへ歩み寄る。カノンは視力を失わずに済んだ左眼で、それを確認した。そしてゆっくりと立ち上がる。出血は既に止まっており、痛々しい痣は残るが右眼も開いていた。

「殴られるなんていつ以来か……リリスさんのお友達? 傷は癒えても、痛みの記憶は残るのよ」

「答える必要は無いですう、もう終わりです。虹乃花さん、わたしの部下は見逃してください。報復も決してしません」

その言葉を受け、カノンが小さく舌打ちする。洗脳が解けている。この仕事は簡単ではなかった。一人で乗り込んだことを若干悔やみつつ、カノンは顔を上げた。

「人形くんが死んだのはただ弱かっただけ。私にとっては損な出来事。あなた達のこれからとは、何の関係も無いわ」

巳様虹乃花が吐き捨てる。九条リリスはその言葉を聞くと、静かに立ち上がる。春風水面の所有物だろう、中身が散らばったリュックの側に落ちた小さな拳銃を拾い上げる。その所作はとても優しく、表情にも硬さは全く無い。むしろまるでこれからデートの約束があるかのように、楽しそうですらある。

「虹乃花さん。ではわたしはお先に失礼します。後は頼みましたよう」

九条リリスは左胸に銃口を当てたかと思うと、もう引き金を引いていた。

15 器

「頭より胸の方が美しく終われる、か。参考になったわね」

巳様虹乃花は、地面に横たわる九条リリスを見下ろしそう言った。重症ではあるが、まだ死んではいない。自発呼吸こそ止まっているものの、致命傷ではなく、巳様虹乃花であれば治療可能な状態だと見て取れた。虹乃花は先ほどより落ち着いていて、普段の判断力を取り戻しつつあった。対するカノンは焦っていた。巳様虹乃花が登場してから、電波を遮断されているのか通信手段も使えない。普段から徹底して単独行動を行うので、時間経過では仲間の救援も期待出来ない。直接の洗脳は試していないが、間接的な洗脳は効かない上、手駒も居ない。時間を稼ぎつつ、探るしかないのだろう。ふと見れば、九条リリスとその部下が消えていた。隣人愛の仕業なのだが、彼女にそれは知る由もない。それでもカノンに逃亡の意志は無かった。自分はIDIの最後の砦であり、自身の敗北はIDIの敗北だと理解していたからだ。

やるだけやってみるか、とカノンは早々に決意した。どこからか手錠を取り出し、片側の輪を自身の左手へかける。巳様虹乃花がそれを意識するかどうか試したかった。虹乃花の視線が動いたことを確認すると、続けて発言する。銀色の鎖が静かに揺れた。

「…………一つ与えます。私はカノン・パラベラム…………あなたは何を差し出す?」

「…………右手を」

巳様虹乃花が返答すると、手錠のもう片方の輪を躊躇い無く右手にかけた。彼女には何が見えているのだろう。

「正解。だけど残念。見てはいけなかった」

カノンが巳様虹乃花に触れる。自身の左手と虹乃花の右手を絡ませ、右手は背中へ回す。そして眼を合わせる。虹乃花は表情こそ作らないが、身体から力は抜けていた。両手で触れれば従えられる、カノンの真骨頂。長いストレートの黒髪が風を受けそよぐ。

「………………合言葉は?」

巳様虹乃花が操られたまま言葉を発した。想定外の出来事に、カノンの思考が一瞬停止する。

「え……」

「ハズレね…………」

慌てて離れたカノンの表情が強張る。操れていない、理由はわからない。ただ、状況は悪化した。巳様虹乃花がカノンの赤い瞳を見つめる。鎖で繋がれたままの右手をカノンの左手に絡ませ固定し、自身の左手にナイフを軽く握った。虹乃花の口元が微かに緩む。カノンは逃げ場を考えたのか一瞬視線を逸らすが、誰も助けてはくれない。だが、その表情は絶望では無かった。

「これだけは使いたくなかった。痛いから」

カノンがそう言うと同時に、拳銃の撃鉄を起こすような小さな音がした。巳様虹乃花は敏感に反応する。だが次の瞬間、彼女を中心とした半径十五、六メートルが衝撃と轟音に包まれた。

16 右手

爆発によって作られたクレーターの中心に、カノン・パラベラムは立っていた。先程までと服装が変わっており、特徴の無いスーツを身に纏う。外傷こそ無いものの、とても疲れた顔をしていた。殆ど立っていることがやっとだろう。彼女も必死だったと言うことが見て取れた。周りを見れば周囲を覆っていた半透明の光は消えていた。何かが終わったのだ。九条リリスが死んだのか、爆発の影響か。

「疲れた……」

カノンがぽつりと呟いた。

「同感、早く帰りたいわね」

彼女が慌てて振り向くと、巳様虹乃花がクレーターの外側からこちらを見下ろしていた。左手で持った銀色の銃もカノンを捉えている。

絶望的状況ではあるが、よく見れば巳様虹乃花の右手首から先が消失していた。手錠がナイフで切断可能かどうか、判断する余裕など無かったのだ。それでも、今の疲れ切ったカノンを始末することは容易いだろう。それはカノンも認識しており、虹乃花を見てももう動けなかった。

「カノンさん、私と取引しませんか?」

巳様虹乃花が意外な言葉を切り出した。だが、第一目的が命の尊重であれば、それは愚かな行為に聞こえた。駆け引きが通じるような相手では無いし、誰もその約束を担保できない。

「……それは脅迫と呼ぶものよ……でも死にたくないから続けて……」

カノンが観念した。巳様虹乃花以外にも敵が潜んでいる可能性もある。機を待つべきだと考えた。

「我々は敵対関係に無いはず。私はただの便利屋。私からの要求は、これから私が望んだ物資や情報を定期的に供給して欲しい。あと、私については調べないで。少なくとも、見える形では」

「あなたを排除出来ないから仕方無い、飲むわ。IDIに私以上の戦力など存在しない……」

カノンがあっさり受け入れる。巳様虹乃花はカノンを立ち位置と性格を読み切ったのだろうか。いや、ただ打てる手を打っただけ。成功も失敗も一つの結果と考える、いつも通りの彼女らしい行動だった。

「報酬はお金で良いかしら? 資金不足でしょうから。権限は私なんかと比べるまでも無いけど、他は大体見えたわ。非合法要員なんか、この国にはそんなに必要無いものね」

「……異論は無い。だけど、あえて聞いておきたい。あなたの思想的背景は?」

「それは言えないけど、既存の団体とは何の関係も無いわ。新興宗教の一種くらいの理解で大して外れはしないけど」

「そう……」

カノンは、明らかに虹乃花は嘘を吐いていると感じていた。その動きは明らかに特殊な訓練を受けているし、扱う銃器も国内で手に入る範囲を逸脱していた。それに、言葉にも微かに訛りがある気もする。要するに、疑わしいことばかりだった。だが、資金不足は事実であるし、彼女の動向を知れれば、優位に働くこともあるだろう。

「交渉成立ね。私のことは今後エミリアと呼んで。追って連絡するわ」

巳様虹乃花はそう言うと、その場を後にした。血痕等の証跡をその場に残すこととなったが、消している余裕は無かった。それにもう、この場に居たくなかった。

17 反省

巳様虹乃花は、自身の事務所でソファーへ腰掛けていた。向かいには九条リリスが座り、背後に春風水面と二色空木月下が立つ。

「”よく来てくれた”わね」

「虹乃花さん、はっきり言って、あの場面で私を助けるだなんて考えられませんよう。何考えてるんですかあ? 最近わたし、よく眠れないのですけど」

九条リリスがお茶を飲みながら返答する。熱い飲み物は苦手なようだが、緊張を隠すために無理して飲んでいるようにも見えた。今日はスーツ姿で、後ろの二人の部下も武器を所持していないようだ。

「あなたが居なければ私は死んでいたと思う。だから助けた、ってのダメかしら?」

「確かに、人形さんの能力が使えなかったのはわたしの仕業ですがあ……ってよく気付きましたねえ」

巳様虹乃花の表情が微かに曇る。九条リリスはそれを敏感に察したが、特にそれ以上気にはしない。

「datが貼られてたからね。あれはあなたが人形くんを制圧するために用意したのよね? 繰り返しを許さないDdat。確かに、彼の能力自体は一つだものね……あれだけ大規模に貼れるなんて。でも、初手で爆薬を使われたら終わりだったはず」

「そこまでお見通しでしたか……自信無くします」

九条リリスがうつむく。

「おかげでカノンさんにもあっさり勝てたしね。ところで、今日はそんなことを聞きに来たの? 一時休戦てことで良いのかしら、私達、敵なんだよね?」

「あまり意地悪しないでくださいよう。……一つ、情報を提供しに来ました」

春風水面がファイルを取り出しデスクに置いた。電子ではなく紙媒体で、厚さから見て数十ページ程度だろう。

「一言で言うと、特異点の再現性について、です。わたしの方で調べた結果を一部共有します。虹乃花さんなら、論理層で解析が可能なはず」

「……ありがとうと素直に言いたいけど、どうも信じられないわね。でもありがとう、参考にさせていただくわ」

巳様虹乃花がパラパラとページをめくる。題材こそ突飛ではあるが、体裁はありふれた報告書で、九条リリスの人生経験を想像させる。巳様虹乃花はファイルを置くと、突然立ち上がり近くの窓の近くまで移動した。そして窓を開け、外を眺める。二階の事務所から見える景色は、街の喧騒くらいでそんなに面白くもないが、それでも彼女を多少癒やす。

「虹乃花さん、ではわたしはこれで失礼します。明日からはまた敵同士ですねえ」

「リリス。今日はありがとう、受けて立つわ。思ったより寂しがり屋なのね、あなたも」

巳様虹乃花がそう言うと、九条リリスはただにっこり笑った。

エピローグ

「駄目……全く出口が見えない……」

巳様虹乃花は自身の部屋でデスクに突っ伏しながらそう呟いた。以前と部屋が変わっている。元々身分証明書など持たない彼女ではあるが、あの日以来更に用心しているのだろう。九条リリスから得た情報と、前回の観測で得た情報を合わせても、特異点はどうにも理解出来なかった。だが、先へ進めない原因は自身にあることにも彼女は気付いていた。

巳様虹乃花は思考する。前に進むことは当然リスクがあり、辛いことだとも知っている。それだけが彼女に許されていて、彼女の人生そのものであったはずだ。だが、失った物の大きさと、これからの人生が釣り合っているのだろうか……なんて、普段の彼女ならあり得ない思考が浮かぶ。失ったのは人形くんと、右手だけだ。右手はかなりのリソースを消費するが再生可能ではある。しかし今はそんな気にもなれなかった。

「…………あなたとならやり直せると思ったのに…………」

天井をぼんやりと眺め考える。私の思想には、誰も付いて来れないのではないだろうか。このままでは、人生全てがただ無為に終わるのではないのだろうか、と。おそらく、それは殆ど当たっているのだろう。特異点の性質そのものに干渉出来ない限り、世界は必ず収束する。我々は踊らされていて、今を抱き締めて生きればそれで幸せなのかも知れない。でもどうだろう、少しも諦める気にはなれなかった。この痛みを無駄にだとかどうだとか宣うつもりは全く無いが、彼は私を信じて生きたのだ。彼の信じた私を信じたいし、その先を見てみたかったのだ。

巳様虹乃花が奮い立ち、無意味に立ち上がった瞬間、入口のチャイムが鳴った。カメラで相手を確認すると、虹乃花は卒倒しそうになった。知っている人物が写っていたからだ。

「虹乃花さん、遅くなりました。自分を消したらなかなか戻れなくて……」

「人形くん……人間じゃなかったのね……」

そう言うと、巳様虹乃花が笑った。人形は決まりの悪そうな顔で苦笑する。虹乃花にとってはとても良い知らせであった。それだけで、景色に色が付いたように見える。何もかもが肯定されたような気がした。先程までの悩みなど瑣末なことに思えた。

人としての彼女には、本当はそれだけで充分であったのかも知れなかった。

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